懐かしい話をしてあげよう。
もう随分むかしになるけれど、あれは確か、そうだなあ、こんなふうにとても寒い日だったかな。
おまけに雪もちらついていたっけ──。
その頃の僕はまだ学生をやっていて、勉強にもスポーツにもがむしゃらに打ち込んでいたから、自分のことを意識している視線があることにまったく気づかなかったんだ。
女の子に興味がなかったわけじゃない。
恥ずかしい話、女の子にどうやって接したらいいのかがわからなかったんだ。
そんなもんだから、ある日突然、彼女から手紙をもらった時には正直おどろいたよ。
……ああ、彼女っていうのは、同じ大学のゼミでたまに見かける、僕より一つ年下の小柄な女の子でね。
女子学生の中でも特に目立つようなタイプでもなかったし、もっとも、僕みたいな男に好意を抱くことさえないだろうと思った。
こんなことを言ったら彼女に怒られるかもしれないけど、恋愛対象としては見れなかったな、うん。
その手紙の内容っていうのが、今思い出しても恥ずかしくなるような言葉ばかりでね。
しかも女の子らしい丸文字なんかじゃなくて、ちゃんとした綺麗な筆跡だったから、冗談や中途半端な気持ちで寄越したラブレターじゃないなって思った。
だからこそ僕は悩んだ。
毎日、毎日、彼女のことばかり考えるようになった。
「おまえが女に熱を上げるなんて、明日は大雪にでもなるんじゃないか?」なんて友人たちから冷やかされたりもしたのさ。
そんなことを言われた翌日の土曜日。
大雪とまではいかなかったけど、空模様は朝からずっとすっきりしていなくて、午後にはほんとうに雪が降り出してくるしで、あの時はもう笑うしかなかったよ。
だって僕と彼女は、その日の夜に会う約束をしていたからね。
……え、どちらが先に誘ったのかって?
そりゃあもちろん、僕のほうから彼女にアプローチをかけたよ。
ラブレターをもらった時点で彼女には恥をかかせているわけだし、そこはほら、男の面目ってやつもあるしさ。
で、ミュージカルの『オペラ座の怪人』のチケットを二枚握りしめて、待ち合わせ場所に向かったんだ。
勿論そんなものを観たところで、僕にはさっぱり理解できないだろうって踏んでいたけどね。
とにかく一度彼女に会って、自分の気持ちを確かめる必要があると思った。
僕が指定しておいた場所は、劇場からほど近い駅の出口で、僕がそこに着いた時にはまだ彼女の姿はなかった。
それもそのはずだよ。
だって僕が待ち合わせ場所に着いたのは、約束の時間の三十分も前だったんだからね。
どんだけフライングする気なんだって、あの頃の自分に言ってやりたいよ、まったく。
それだけ彼女に対する気持ちが、いつの間にか固まってたんだろう。
この機会を逃したら次はないぞ、ってね。
ガールフレンドというよりも、婚期を逃すんじゃないかって、男のくせにそんなふうに女々しいことを考えた。
そうして夢見心地の三十分はあっという間に過ぎて、腕時計が約束の時刻を指した。
けれども彼女は現れなかった。
女の子は準備に時間がかかるってよく言うし、ミュージカルの開演時間までは余裕もあったから、メンソールの煙草を吸いながら彼女が来るのを待ちわびていたんだ。
駅前のロータリーにタクシーやバスが停車して、人を下ろし、また発車していく。
そこにも彼女の姿はなかった。
そんな虚しい風景を何度もやり過ごしているうちに、こんな寒空の下で自分は何やってんだろうって、心が折れそうにもなった。
その当時は今みたいに携帯電話もなくてね。
公衆電話から彼女のアパートにかけようと思ったけど、そうしているうちに擦れ違ってしまうといけないから、結局その場から離れられなかったというわけさ。
クリスマスが近い街のイルミネーションがとても綺麗で、歩道にも雪がうっすらと積もりはじめていたし、道行く人の表情はみんな明るくて、寒さに震えている自分だけが惨めでならなかった。
彼女が来ないままとうとう開演時間になってしまったから、ひょっとしたら何かの事故に遭っているんじゃないかと考えて、僕は慌てて電話をかけてみたんだ。
かじかむ両手に、はあっ、と息を吹きかけてダイヤルすると、受話器の向こうでコール音がずっと鳴っていた。
やっぱり彼女は電話に出なかった。
コインの返却口に十円玉が落ちる音がして、僕は溜め息をついた。
そんな時に、遠くのほうから救急車のサイレンが聞こえてきて、その音は駅の反対側をかすめて行ったようだった。
そこで僕はようやく気づいたんだ。
その駅には西口と東口があったということにね。
自分のいる西口から駅の階段を上って、僕は東口に向かった。
思った通りだった。
彼女はそこにいた。
約束の時刻から二時間以上も過ぎていたのに、彼女はずっと僕のことを待ってくれていたんだ。
白のコートに赤いマフラー、その肩をすぼめてポケットに手をくぐらせたまま、ブーツを踏み鳴らして足踏みする彼女。
僕は思わず彼女の名前を呼んだ。
そうして振り返る彼女の顔にどんな思いが込められていたのか、あれは今でも忘れることができないよ。
僕が彼女のそばまで駆け寄ると、途端にその表情に光が射したみたいに明るくなっていくのがわかった。
彼女の長い睫毛は白く凍っていて、唇の色もどこか赤みがななっていた。
「ごめん」と一言、僕は彼女に謝った。
嫌われても仕方がないと覚悟はしていた。
けれども彼女は僕に微笑み返してきたんだ。
「ぜんぜん待ってないよ」だなんて彼女の健気な優しさに、僕の胸はきりきりと痛んだ。
そうして次の瞬間にはもうその痛みは消えて、今度はとても温かい気持ちになっていた。
……そう、僕が彼女を抱きしめていたからさ。
どっちの体が震えていたんだろう。
どっちの心音が聞こえていたんだろう。
ただもう愛しい思いに任せて、僕らはずっと抱きしめ合っていた。
まわりの音は何一つ聞こえない二人だけの世界で、唇を重ねる音が微かに聞こえた。
するとどうだろう。
瞬間に二人のバリアが解けたかと思うと、そこに割り込んでくるハーモニーと、弦を弾く空気の振動が聴こえてきたんだ。
はっとして二人でそちらに目を向けると、僕らとおなじくらいの歳の青年が二人、アコースティックギターを弾きながら唄っていた。
おそらく彼らのオリジナル曲だったんだろう、路上ライブの歌声に僕も彼女もすっかり聴き入ってしまって、ふとして彼女の瞳に光るものがあった。
スワロフスキーみたいな涙だった。
人を好きになるとね、何でも美化されて目に映るらしいんだ。
けれども彼女の美しさは本物だった。
気がついた時には二人でベッドを共にして、夜を共にして、朝を共にしていた。
*
つづき「愛染の鳥籠[2]」へ
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