ヴァギナビーンズ症候群「1」_ハッピーライフ-官能小説(happylives-novel)

牝獣(ひんじゅう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜 ——日野草城

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ヴァギナビーンズ症候群「1」

15-06-14 10:30

彼女の興味はすでにショーケースの中に注がれている。その隣にいる背の高い結婚適齢期の男性は、さり気なく上着の内ポケットに袖を差し込み、ボディーガードさながらの物腰をくずそうとはしない。

「どれでも、千佳ちゃんが好きなのを買ってあげるよ。誕生日は明日だったよね?ええと、いくつになるんだったかな。二十……」

「二十三です。けどいいんですか?なんだかやっぱり悪いような気がするんですけど」

「それは僕に対しての遠慮なのかな?それとも……、お姉さんのことを思って言ってる?」

橘千佳(たちばなちか)は本心をさとられまいと細心の注意をはらいながら、偽りの憂い顔で彼を見返した。そして少し取り繕うように微笑んでごまかしてみせる。

「そんな顔しないでくれよ。明日はずっと一緒にいてあげるからさ」

「三上さんは誰にでも優しいんですね」

「よせよ。ほんとうに優しい人間なら、婚約者に隠れて、その妹とこんなふうに会ったりはしないだろう?」

「やだ、誰かに聞こえちゃいますよ」

その時彼は少女漫画でよく見かけるきらきらした瞳を、実写として目の前で見てしまったのだろう。
彼女の可愛い思惑にまんまとしてやられた三上明徳(みかみあきのり)は、きみさえ良ければいつでも僕を頼るといい、罪なら僕がぜんぶ被ってあげるからと、堂々と自惚れていることにも気付かない。
そのすべては千佳の計算通りであり、同時に姉への裏切り行為でもある。

最初に姉から三上明徳のことを紹介された時など、歳の離れた兄ができた程度にしか思っていなかった。
それから何度が顔を合わせるうちに、彼のほうが自分に特別な感情を抱いているのではないかと、千佳は薄々感じるようになっていった。

しばらくして、三上明徳と婚約したのだと姉から聞かされた時は、千佳は二人のことを心から祝福し、それまでの彼の言動が自分の勘違いだったのだと思い直す。
はじめから恋愛感情も湧いてはいなかったから、気持ちの切り換えをする必要もなかったのだけれど、ある時を境に、どんな食事にも味がしなくなるのだった。

「欲しいものは決まったかい?」

明徳の紳士的な眼差しが、千佳のまるみのある横顔を捉えている。

「いちばん欲しいものは我慢しなきゃね。だって、三上さんはお姉ちゃんの──」

それ以上は言いたくないのか、千佳は言葉を詰まらせて何度も瞬きをしている。そんな彼女がたまらなく愛おしい。
長身の彼は小柄な彼女に寄り添い、姉妹のあいだで揺れ動く気持ちを持て余していた。それはやはり千佳が味覚に異変を感じはじめたのと同じ時期に、明徳の良心にも縫い針で刺したような痛みがあらわれはじめていたのだった。
若年の二人はショーケースに映りこんだ互いの顔を見つめたまま、恋の火種となった出来事を思い返してみる。

あの日、彼は私を抱きしめてくれた。もう引き返せそうにない、橘千佳はそう思った。

あの日、彼女は僕を抱き返してくれた。もう後戻りできそうにない、三上明徳はそう思った。

「ねえ、たまには三人で飲まない?女子会に使えそうなオシャレなお店、見つけちゃったんだよね」

橘千佳の姉、琴美(ことみ)からそんなふうに提案があった時から、何かが起こりそうな予感がしていたことを二人は思い出す。
琴美の誘いを断る理由を、明徳と千佳は持ち合わせていなかった。というより、前向きな気持ちのほうが強かったと記憶している。

「僕が参加したら、女子会とは言わないんじゃないか?」

「だったら女装でもしてみる?」

「よしてくれよ。僕にそんな趣味はない」

「素材はわるくないと思うんだけどなあ」

ははは、と笑う時にさえ息が合う二人を見ているうちに、千佳の心に純真ではないものが染み出してきていた。白でも黒でもなく、それはまだ灰色の感情だったのだろう。

「どうせならどちらかの部屋で家飲みしたらどうかな。お姉ちゃんの手料理のほうが外で食べるより美味しいし、ほら、三上さんだって未来の花嫁の腕前を見ておきたいですよね?」

まさか自分の口からそんな台詞が出てくるなんて、誰より千佳自身がいちばん驚いていた。「どちらかの部屋」というのは、三上明徳が一人暮らしをしているアパートもしくは、橘姉妹が二人で借りているアパートで、という意味である。
もちろん何らかのアクシデントが起きることを見越しての発言でもあるし、「それがいいかもね」と言ったときの彼の笑顔に無条件の愛くるしさがあったのを、千佳が見逃すはずがなかった。
自分はこの人のことを好きになってしまうのではないか。そんなまさか……、絶対にありえない。姉の彼氏に好意を持つ妹なんて、私は軽蔑する。
きれいごとを言えばそうやって諦めたふうに装えるけれど、恋に落ちた友人達が盲目になっていくところを何度も見てきた千佳にとって、自分も例外ではないと自覚していくことになる。

「明徳さんがそう言うなら、新妻の予行演習がてらに、今回は私が腕を振るいますか」

琴美は得意げに小鼻をふくらませて、家事とは縁のなさそうな細い指をスナップさせた。
二つ歳の離れた姉を誘導することに成功した千佳と同様、明徳にも下心らしき欲求が芽生えはじめていたのだが、なにも知らないのは琴美だけ。
ランチタイムのファミリーレストランでの企画会議を終えて、「ここは私が」と琴美が伝票を手に席を立つ。
少し遅れて千佳と明徳が腰を上げると、彼のシャツの裾を千佳がくいっと引っ張った。
どうかしたのかという表情で明徳が振り向けば、上目遣いの千佳が息苦しそうな挙動をあらわしている。

「どうかした?」

今度は声に出して尋ねてみる明徳。

「シャツに糸くずがついてたから」

嘘をつくと瞬きが増える千佳。

「ありがとう、千佳ちゃん」

男性のさり気ない笑顔にこれほどまで胸を締めつけられるとは、恋愛経験の少ない千佳には新鮮な刺激だったにちがいない。
ふわっと体温が上がったかと思えば、胸が詰まって頬の内側が酸っぱくなる。果たしてこれはレモン何個分になるのだろうかと、火照った頭で分析をしてみるけれど、これは無駄に終わった。

「きみが言いたかったことは、なんとなくわかったから」

店の駐車場に停めてあったRV車の運転席側から顔をのぞかせ、明徳は白い歯を見せてそう言った。

「え、私なにか変なこと言った?」

琴美には何のことだかまったく覚えがない代わりに、彼女の後ろに佇む千佳には彼の本意がどこにあるのか見当がついていた。
不意に、清楚なワンピースの裾が風にあおられ、琴美の素足が膝上まで露わにされたというのに、明徳の視線はその背後の千佳を捉えたまま離れられないでいる。

さすがに血を分けた姉妹だけのことはある。しかしこれはかなり厄介な問題に遭遇してしまったようだ。僕はこの二人に対して平等に心を許し、最終的にはどちらか一人を選ばなければならない。不器用な自分にそんなことが出来るとはとても思えない。やっぱり僕は恋愛なんかには向かない人間なのだろうか。

まだ三角関係が成立していないうちからそんな皮算用をしている明徳のことを、姉のほうは曇りのない笑顔で見送り、妹のほうは物恋しい眼で追っていた。

この数日後、それぞれの事情を抱えた三人は、橘琴美、千佳姉妹が暮らす賃貸アパートの部屋で合流し、打ち合わせ通りに琴美の手料理で三上明徳をもてなした。

つづき「ヴァギナビーンズ症候群「2」」へ


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