ヴァギナビーンズ症候群「15」_ハッピーライフ-官能小説(happylives-novel)

牝獣(ひんじゅう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜 ——日野草城

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ヴァギナビーンズ症候群「15」

15-06-14 10:31

この話はつづきです。はじめから読まれる方は「ヴァギナビーンズ症候群「1」」へ

「申し訳ありませんが、お煙草は喫煙ルームでお願いします」

堅いスーツに身を包んだ女性スタッフに声をかけられ、彼は出しかけた煙草の箱を礼服のポケットに入れた。僅かに悪びれた様子がある。

「いやあ、普段は煙草などめったに飲まないんだが、こういう場所にいると落ち着かなくてね」

「そうでしたか。お察しします」

「これからおもしろいものが見られると言うから来てみたのだが、どうにも肩が凝っていかん」

そう言って肩をたたく造作をする。
彼女は不思議そうな顔で彼をのぞき、「あのう、以前どこかでお会いになりませんでしたか?」と首を傾げる。

「わたしはこう見えても、警察の世話になったおぼえはないのだがね」

初老の男は指名手配のビラを仄めかしてきた。
女性スタッフの頬が緩むのを見届けて、つられて彼も、ははあと笑った。そして、わたしはこういう者だ、と中空でさらさらと筆をはしらせる真似事をする。
彼女の表情が閃く。

「そちらのお仕事の方でしたか。どうりで──。それにしましても、本日はまことにおめでとうございます」

姿勢よく会釈する彼女にならって、彼もまた白髪混じりの頭を軽く下ろした。
総合結婚式場内の喫茶スペースを兼ねたゲストフロアに、また各会場の要所要所にも、彼が寄贈した絵画が品良く飾られてある。
あまりおもてに顔を出したがらない性分なので、なかなか作者と作品が一致しないというのが悩みの種でもあり、時にそれが好転することもあるのだった。
今日まで、年寄りを年寄り扱いせずにいてくれた一人の女性の顔を思い浮かべながら、そろそろ行くかな、と彼はその重い腰を上げる。

粛々とした雰囲気の中、来賓の顔ぶれにあれだけ涙を見せていた新婦も、今はもう『三上』の姓を名乗る覚悟ができているのだなあと、姉の凛とした表情を見ながら橘千佳は思っていた。
その隣にいるタキシード姿の新郎はまぎれもなく三上明徳であり、一瞬たりとも千佳と目が合うこともない。
彼がどこか遠くへ行ってしまう、そんな心細さを打ち負かしてくれているのは、最愛の姉の幸せそうな笑顔だと知る。

ほどなくして千佳は名前を呼ばれ、小さなステージに立った。一生に一度きりの、妹から姉へ贈る餞(はなむけ)の言葉。それは、新郎新婦へ決まりの弁を述べた直後だった。

「お姉ちゃん……」

千佳はそこで声を詰まらせる。それ以上は何を言おうとしても言葉にならず、今まで自分がどれだけ姉の恩恵を受けてきたのかを伝えたいのに、口から出てくるのは嗚咽とビブラートばかりである。
円卓のあちらこちらからも女性のすすり泣く声が聞こえ、美しすぎる姉妹愛の行方を、そこに居合わせた誰もが涙なくしては見届けられなくなっていた。
それでも千佳は気丈さを見せようと、唇同士を摺り合わせてから喉元に指をあてて、二、三度だけ小さな咳をした。

「お姉ちゃん──」

先ほどまでとはちがい、とても透き通った声がマイクロフォン越しに会場を渡っていく。
千佳は便箋と姉の顔へと等しく目を配り、ときどき新郎を牽制しながら、ありったけの実りの言葉を述べた。
スポットライトを浴びた千佳のドレスのスワロフスキーが、涙の数だけ光り輝いているように見えた。

「──しあわせになってね」

姉を慕う妹の祝辞が締めくくられると、コンサート直後のホールを揺るがす歓声のごとく、拍手は渦巻いて、新婦は黒い涙を流した。

お姉ちゃん、メイクが落ちてるってば。

千佳は琴美に向かって、くちパクでそう告げた。
鳴り止まない拍手の中、スタッフのひとりが千佳にヴァイオリンを手渡すと、会場はまた元どおりの静けさを取り戻す。
弦の上に弓を構える。
なにもない数秒間が過ぎたあと、そよ風が吹き抜けるようなヴァイオリンの音色が流れてきた。
その音源は、限りなく千佳の体内に近い部分にあるのだと、誰もが錯覚したにちがいない。
それはおよそ恋をした乙女にしか表現できないメロディーだったからだ。
千佳は自分の世界に入り込み、より一層の叙情を織り交ぜて最後まで演奏しきった。
うまくいった、と自分自身を絶賛しながら一礼をして、ふたたび顔を上げたときだった。

「千佳」と名前を呼ぶ男の声がする。聞き覚えのある声だったから、千佳はすぐにそちらを向く。三上明徳がそこにいた。
けれども、その隣にいるはずの花嫁の姿がどこにもない。
照明はまだ暗いままになっていて、千佳と明徳の立ち位置だけがスポットライトを浴びている。
彼が彼女に近づいていくと、長い光もそれを追って移動し、やがて交わった。
千佳にはわけがわからない。この状況の説明を要求するように、彼女は見える範囲で会場内を見渡してみた。
するとどういうわけか、慣れ親しんだどの顔にも、こうなることを見越していたとでもいうべき笑みが用意されているのだった。

「三上さん、お姉ちゃんは?お色直しにはまだ早すぎるみたいだし」

「じつは、ずっときみに黙っていたことがあるんだ。それを今日ここで告白しようと思ってね」

音響のスイッチは切られ、二人はアカペラで対話するかたちとなる。

「どういうことですか?」

「いつだかきみは僕にこう訊いたよね。サプライズは準備してあるのか、ってね」

「はい。あの……、それは……」

千佳は思わず息を飲む。

「まだわからない?」

「え……と、あの……でも……」

彼の言わんとする企みが、千佳はなんとなく読めてきていた。しかしそれがあまりにも現実離れした妄想だったから、自分の頬をつねって確かめるわけにもいかず、ここはひとつ騙されてみようかと思った。
そこへ姉の琴美が登場した。しかもウエディングドレス姿ではなく、シャーベットカラーの黄色いドレスを着ていたのだ。

「お姉ちゃん、どうして……」

「それはあとで話してあげる。だからこれは、ほんとうの花嫁に返しておかなくちゃね」

そう言って琴美は自分の指からエンゲージリングを外すと、いちど明徳に手渡し、彼から千佳の指にはめられた。
千佳は何度も手を返し、指輪のサイズが合っていることを疑問視している。

「千佳」

紳士的な声で新郎が言う。

「はい」

落ち着いた声で新婦がこたえる。

僕と……結婚してくれ。

よろしく……お願いします。

おそらくそんなやりとりが交わされているのだろう。
会場のいちばん後ろから立ち見していた河原崎郡司は、聞こえない会話の内容を雰囲気から読み取り、「なるほど、それをわたしに見せたかったのだな」と満悦な表情で呟いた。
遠目から彼が新郎新婦を眺めていると、主役の二人は熱烈なキスを交わし、次に姉と妹とがハグをするのが見えた。
スタッフに扉を開けてもらい、郡司は会場を出た。
そこで目の端に見えたのは、イーゼルに立てかけられたウェルカムボードだった。
彼がここに来たときには、確かに明徳と琴美の名前が記されていたはずなのだが、いまそこに書かれているのは明徳千佳の名前である。
郡司はまた無性に口が寂しくなり、喫煙ルームの案内に従って歩き出す。

興奮冷めやらぬままに、仲の良い姉妹は二人きりで新婦の控え室にいた。
そこで姉から明かされた事実を聞き、千佳は何ともやりきれない気持ちで肩を落とした。
それは、千佳がよく好んで視ていたテレビドラマのワンシーンとダブる部分があったからかもしれない。

明徳と琴美の関係は、もうずいぶん前から冷めていたらしい。それから明徳と千佳の関係についても、琴美はある時点からなんとなく感づいていたと言う。何より決定的な事実は、琴美が明徳以外の男性と性交して、さらには妊娠してしまったということだった。
産むか産まないかは明言しなかったが、妊娠についてはまだ相手の男性にも伝えていないようだ。加えて、近いうちに日本を発つ彼について行くとも言った。
そうなるといよいよ、あのドラマの中で男と女が繰り広げていた会話が、明徳と琴美のあいだで交わされていたことになる。

「お姉ちゃんはそれでいいんだよね?」

「お父さんにはすごく反対されちゃった。だけど、お母さんは認めてくれた。自分の人生なんだから、後悔のない選択をしなさいってね」

「三上さんは?」

「彼は、明徳さんは私を応援するって言ってた。だから私も、千佳を泣かせるようなことだけは絶対しないでねって、釘を刺しておいたから」

「ありがとう。私はかならずしあわせになるから、お姉ちゃんにもしあわせになってもらわなきゃ困るんだからね」

「うん、わかってる。ほら、はやく着替えて。みんな千佳を待ってるんだから」

琴美は部屋の外に待たせてある女性スタッフを呼ぶと、千佳を彼女に引き渡して部屋を出た。
披露宴のクライマックスにふさわしい装いで、千佳を次のステージへと導いて欲しい。
琴美は心の中で、かつての恋人に願いを託した。

「終わったようだね」

姿のない声が聞こえた。確かめるまでもないと思いつつ、琴美はそちらを振り向く。

「いいえ、これからがメインディッシュです、河原崎先生」

「きみという人は、見れば見るほど気品がありながら残酷な女性だ」

「それはちがいます。妹を思えばこそ、姉としてできることをしてあげたまでです」

「彼女がそれを望んでいるとでも?」

「私とあの子は繋がっています。だから、私が嬉しいと思えば妹も嬉しいと思うし、逆に悲しいと思えばあの子も悲しいと思います。つまり、私が気持ちいいと思うことが、千佳にとっての快感になるはずなんです」

「結構」

そう言って郡司は琴美に手のひらを見せた。

「アトリエの準備はしておくから、あとは頼んだよ」

郡司の言葉に、「かならず」とだけ琴美が返すと、彼は式場の出口を目指し、琴美はまた披露宴会場へと戻るのだった。

つづき「ヴァギナビーンズ症候群「16」」へ


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