この話はつづきです。はじめから読まれる方は「春眠の花[1]」へ
「さてと、小村さんの気が変わらないうちに、やるべき事をやっておきましょうか」
「……?」
「僕の診るかぎりでは、あなたは30歳になってようやく理想のビジュアルを手に入れたようですね。顔も体も、それから女性器も見事なビジュアルです」
褒め言葉のつもりだろうか、私は軽く受け流したはずだったが、どうやら子宮と膣は彼に口説き落とされたようだ。
愛液の分泌量だけで両手が満たせるくらいに、あとからあとから流れ出てくる。
私の胎内から老廃物を搾り出すようにして、婦人医療のスペシャリストは器具のストロークを巧みにあやつる。
「スプーン……、トリック……」
さまざまなアプリケーションによって結合部を上手い具合に突き上げられるたびに、水分を含んだ音が部屋中にひびく。
気持ちが良すぎて、もうおかしくなってる。
自分的には『トリック』の先の読めない動きが好きだけど、ほんとうはもっと生々しい、男の人そのものがたまらなく欲しい……。
欲しい……。
欲しい……。
「ふんぅん……んんっ……、はっあっ……あぁ……あぁ……」
喘ぎ声が出るうちはまだ救いようがある。でも私は変なスイッチが入ってしまって、息を吸っているのか吐いているのかもわからなくなっていた。
「オーガズムの兆候だ。類似の症状と間違わないよう、君らも気をつけるように」
女性が性的な絶頂に溺れていくメカニズムを、彼は指摘を交えながら研修医に教え込んだ。
フィットネスクラブで爽快な汗を流しているのかと思うほど、一滴一滴が私の肌の上でおどっていた。
「そうですね、一度このへんで楽になっておきましょうか。治療はまだ始まったばかりですからね」
出口の見えない快感に飲み込まれていく私に、淫らな審判が下された。
「マテリアル……、サージカルヒット……」
醜くほぐれた膣膜に新たな動きが加わり、女体のなかの温泉を掘りあてた器具は回転の切り換えを速めていく。
「あっあっあっ……、あひっ……あんあっ……ひっ……、う……嘘っ……、ひあうんっ……」
びちゃん、びちゃんと情けない音が歪(いびつ)な性器から聞こえてくる。
妊婦としてここに運ばれてきた時の私とはまるで正反対の素質を持った女が、分娩台の上で贅沢な接待を受けていた。
シスターがそうするように、私は胸の前で十字を切ったつもりでエロスの女神に祈りをささげ、甘い洗礼に身悶える巡礼者になりきった。
ちょっと待て、そんな女神様がいるわけないでしょう、と冗談をやっている暇もなく、窮屈な膣がわなわなと痙攣しそうになってきた。
絶頂まであと数秒だと思ったとき、出海医師のあやつる機器が不吉な電子アラーム音を発した。
故障……でもなさそうだ。耳障りな音だが、いまの私は快楽の真っただ中で首すじを伸ばし、血管という血管を青く浮き上がらせていた。
あたまの隅で鳴り続けるアラームが耳の穴を不快にさせた瞬間、快楽物質のミストが体中で吹き荒れた。
もう瞼を開けておける自信がない。上りきったのか落ちていったのかも自覚できない感覚の中で、電子アラームだけがずっと同じ音を刻んでいる。
せっかく気持ち良くなれたというのに、音が気になって余韻が楽しめない。
音の出どころはどこだろう。私は瞼を上げるのと同時に寝返りを打って、目に映ったその光景に戸惑いを隠せなかった。
*
気がつけば私はベッドの上でよだれを垂らしていた。
相当寝相がわるかったらしく、掛け布団はありえない方向にすべり落ちている。
体をほとんど動かさずに目覚まし時計の電子アラームを止めてみて、私はようやく夢から覚めた。
さっきまでの出来事はぜんぶ夢だったんだ──。
低血圧な目つきで起床すると、寝室では思いもよらない事態が起きていた。
可愛げのないベッドに、流行音痴なシーツ。女性の部屋には不釣り合いに見えるカーテンと、風水を無視した家具の配置。
それはまあいいとして、もっと残念なことがあったわけで。
またやっちゃったよ……。
私は自分の股間あたりを二度見した。パジャマが濡れている。
ここには私ひとりしかいないはずだから、当然私の仕業だろう。
生理日でもなければ、夜尿症による汚れでもない。消去法でいけば、私の愛液だということは明らかだった。
夢の中で体験した出来事が私を興奮させて、眠っているあいだに発情してしまった結果がこれだ。
言い訳もできないくらいの恥ずかしい染みが、シーツに地図を描いていた。
さすがにコロンブスもびっくり……するわけがない。ぜったいあいつのせいだ。
思い出したくもない人物の顔を辿りながら、私はバスルームを目指した。
そもそも知り合って三ヶ月で、「奈保子とずっと一緒にいたいんだ、僕と結婚してくれ」と言われた時点で気づくべきだった。
その言葉を信じて籍を入れた途端に彼の性格が変わり、残業があるからと朝帰りをしては、いやらしい香水の匂いを家庭に持ち込むような人だった。
私の知らないところで不特定多数の女の子と会っていたのだ。携帯電話の履歴を堂々と残してあるのがまた憎たらしい。
セックスにも不満があった。セーラー服を着ろだの、裸にエプロンだの、挙げ句の果てには深夜のアダルトショップに私を連れ出し、犯されてもおかしくない状況の中で男性客の視姦を浴びせられたのだ。
彼とのあいだに子どももいなかったし、離婚を決意するのに時間はかからなかった。
私にバツがひとつついた。離婚歴のある女性にはマイナスイメージがついてまわるのが相場だが、マイナス結構。過去は忘れて前向きな人生を取り戻し、ふたたび女を咲かせることにした。
シャワーの水圧を押し返す肌の弾力をたしかめながら、下腹部の汚れをぬめぬめと洗い流した。
わるい男運もいっしょに流れてしまえばいいのに。
だけど何だろう、どんな夢を見ていたのかまったく思い出せないというのは。
彼と離婚してからこっち、何度かおなじ夢を見ているはずなのに、目が覚めるといつも記憶に雲がかかってぐずついている。
だからといって寝不足になるでもなく、何から何まですっきりとした気分で朝から絶好調なのだ。
性に奥手な私がここまで派手に濡らしているということは、そうとうリアルな夢を見ていたに違いないわけで。
それならそれで、思い出さないほうがいい夢だってあるんだから、この件についてはあまり深く追求しないでおこう。
軽くシャワーだけで済ませて、私はバスルームを出た。
昇ったばかりの太陽がベランダから射し込んで、部屋の内装を白くぼかしていた。
空腹のまま深呼吸をすれば、しびれを切らした胃袋が催促の合図を出す。
ベーコンをカリカリになるまで焼いて、卵の目玉は半熟、厚切りのバタートースト、それからミルクたっぷりのカフェオレをテーブルに配置した。
携帯電話には留守電が二件入っていた。勤務先からと、友人からだった。
どちらも大した用ではなかったので、朝の貴重な時間を身支度に費やすことに専念した。
テレビから流れてくるデイリーニュースを耳に詰め込みながら、鏡の前では勝負の顔が出来上がっていく。
五歳は若返った……かな。
しぜんと口角が上向きになる。
そして私は裸にエプロンではなく、セーラー服でもない、普通に大人の女性が好む格好をしてマンションを出た。
勤務先までは車で20分ほどの距離だが、あいにく愛車は点検中なので、今日のところは電車で移動するしかなさそうだ。
静電気でスカートが脚にまとわり付くのを省けば、駅まではスムーズに辿り着けたと言える。
季節の変わり目ということもあり、冬服と春服の入り混じった人波が改札を出入りしていて、私は少し気後れしながらも早足でホームを目指した。
あいかわらず、すごい人ね……。
サラリーマンとOLと学生、その三種類の人しかいないと思える光景。
そのほとんどが携帯電話に気を取られ、そこにしか生き甲斐がないという表情で画面から目を離さないでいる。
電車が到着してようやく顔を上げたと思ったら、マナーはどこかへ置き去りにされ、またそれぞれの世界に引きこもる。
私はどこか納得のいかない気持ちのまま、混雑した車両へと吸い込まれていった。
「扉が閉まります、ご注意ください」
蚊の鳴くようなアナウンスをなんとか聴き終えると、さっそく女子学生やOLらの談笑が細々と聞こえてくる。
こんな場所でもやはり男性よりも女性の方が口がよく動く。
流行性のウイルス対策なのか、マスクをしている人の姿も何人かいるようだ。
そういえば──、と例の夢に「マスク」が関係しているような直感をおぼえた。
でもそれがいったい何のヒントになるのかも今はわからない。
つづき「春眠の花[5]」へ
コメント