第1話『カフェ・パシフィカ』
デザインと色に一目惚れして買ったマフラー、そのマフラーを首に巻いていないことに気付いたのは東京に戻る新幹線に乗車してからだった。
指定の7E席に座ると、昨日この街に辿り着いてからの行動を思い返し始めた。
笠野辺 玲は昨日の午後からクライアントを訪問しプロジェクトのキッキオフミーティングに参加していた。
プロジェクトの概要を示すプレゼンテーションを受け、タイミングとアクションプランを作成し、それぞれのアイテムに担当責任者を割り当てていった。それだけで時計は6時を少し回っていた。
会議の後はプロジェクトチームのメンバーと会食し、大半のチームスタッフがガールズバーに流れ込んだのを尻目に、アメリカンフットボール好きなプロジェクトマネージャーの大高謙一とふたりでスポーツバーに出掛けた。 シアトル・シーホークスとデンバー・ブロンコスが頂点を目指して対戦する第48回スーパーボウルを観戦するためだ。
アメリカ東部時間との時差の関係で既に試合は終わっており玲は結果を知っていた。
一方、学生時代にシアトルで過ごした大高は、シーホークスの熱狂的なファンで、この日ばかりは意図的にニュースを目にすることなく情報を遮断するほどだった。
ハーフタイムにレッド・ホット・チリ・ペッパーズのライブを挟んだ試合はシーホークスのワンサイドゲームで、43-8で圧勝し初優勝を果たした。贔屓のチームの勝利に大高の機嫌は終始良かった。
玲にしてみれば勝者がシアトル・シーホークスでもデンバー・ブロンコスのどちらでも良かった。玲が贔屓にしているのはワシントン・レッドスキンズだからだ。
レッドスキンズは一昨年は地区優勝したもののスーパーボウルは二十年以上出場していない。
それでも、スポーツバーの大画面で観るアメリカンフットボールは迫力があり、アメリカ最大のスポーツの祭典を十分に堪能した。
試合が終わるとテーブルで会計を済ませ店を出るとホテルまでタクシーに乗車した。
アメリカンフットボールを観戦し熱くなったせいかタクシーに乗車した時には、ダウンジャケットは腕に抱えたままだった。それでも、マフラーは間違いなく首に巻き付けていたことを思い出した。
駅のコンコースからエレベーターで接続するホテルにチェックインした時にもマフラーは首に巻き付けたままだった。
ホテルのロビーは適度に空調が保たれており、首に巻き付けたマフラーは暑く感じるほどだった。
『タクシーに忘れた訳ではないな』
玲が声に出すこともなく心の中で呟いた頃には新幹線は運行上のトップスピードに到達していた。
次に思い返していたのは、スポーツバーを出てホテルにチェックインしてからのことだった。
ダウンジャケットは腕に抱えたまま客室フロアへのエレベーターに乗り込み42階まで上がると、カードキーを差し込み部屋に入った。
部屋に入ると、ダウンジャケットをクローゼットのハンガーに掛け、そのハンガーにマフラーも掛けたことを明確に覚えていた。
翌朝ロビー横のレストランで朝食を食べながら新聞を読んだ。スポーツ欄には昨夜スポーツバーで観戦したスーパーボウルの記事を読んだ。アメリカとの時差の関係で新聞記事になるのはこのタイミングなのだった。
部屋に戻り仕事関係のメールをブラックベリーで確認するとクローゼットからマフラーを取り出し首に掛け、ダウンジャケットは腕に抱えたままロビーに向かった。チェックアウトしている間に、大高が迎えに来てくれた。
大高の車の後部座席にバッグとダウンジャケットを奥と助手席に乗り込んだ。クライアントのオフィスへの道中もマフラーは首に掛けたままだった。
オフィスに到着し会議室に入ると、ポールハンガーにマフラーを掛けた。帰りも駅まで送ると申し出てくれたからダウンジャケットは大高の車の後部座席に置いたままだった。
プロジェクト会議は十二時を少し回ったところで終了した。駅への道すがら昼食を取ることになり、大高のアシスタントの嶋田裕也と小林由紀が同行した。
「昨日はふたりでどこに消えたんですか?ガールズバーを断ってまで行くようなところが有るんですか?」
車が走り出すと嶋田は興味津々で質問した。
「ガールズバーと言えば聞こえがいいけど、キャバクラだろ?まさか若手が揃って熟女パブじゃないだろうな。社の品位を落として無いだろうな?」
大高は嶋田の質問には答えずからかうような口調で答えた。
「えぇ嶋田さん熟女が好きなんですか?」
昨夜、会食の後、そのまま帰宅した由紀も嶋田をからかうように質問した。
「笠野辺さん、教えてくださいよ。どこにいらしたんですか?気になるなぁ」
玲も嶋田をからかってみたくなった。
「大高さんもぼくもおもいっきり興奮しましたよ。大高さんは終始ニコニコしてましたから」
「おふたりが興奮するところってどこだろう?」
嶋田以上に由紀が興味を持ったようだった。
「こら。ふたりともお客様の前で。。。でも、最高だったよ。今思い出しても興奮するよ。ねっ笠辺さん?」
昨夜のスーパーボウルの結果に大満足の大高が笑いなら答えた。
「昨日は大高さんのお誘いでスポーツバーに行ったんですよ。アメリカンフットボールの試合を観に。大高さんの好きなシアトルのチームがワンサイドゲームで勝ったから興奮しっぱなしで」
玲の説明に嶋田が意外という表情を見せた。
「スーパーボウルですか?そう言えばこの季節でしたね」
「日本時間では月曜の朝だから仕事で観れないだろ?だから、録画とわかってても夜観に行ったんだよ」
大高がようやく嶋田の質問に答えた。
「そうだったんですか?楽しそうですね。それにしても、いつそんな相談してたんですか?」
由紀が次の質問を投げ掛けてきた。
「小林さん、会議の途中で大高さんからぼくにメモを渡すようにメモを預かったでしょ?」
「はい、覚えてます。『メモの件、了解しました』っておっしゃったのは、そのことだったんですね。てっきり仕事のことだと思ってました」
大高のメモを託された由紀は納得して答えた。
「参ったな。ちょうど僕がプレゼンしてた時ですよね?何か変なことを言って、フォローされたと思ってましたよ」
嶋田もメモのことは覚えていた。
車中で昨夜のことや午前中はフォローアップ会議の話題をする間に、四人を乗せた車は目的地のイタリアンレストランの入るビルの前に到着した。
ビルの向かいにある立体駐車場に入庫するつもりであったが、ちょうどビルの真ん前のコインパーキングから出る車があった。
二月の最初の火曜日は風も無い晴天のため真冬とは思えない暖かさだった。雪の予報が出て、少し雪が舞った昨日とは別の季節と感じるほどだった。
目的地のイタリアンレストランは、一階にコンビニエンスストアが入り、二階から七階まではレストランやバーが入るビルの五階にあった。定員は五十人程の大きくも小さくもない店内は白を基調にしたインテリアが清潔で明るい雰囲気を醸し出し、窓際のテーブル席が予約されていたが、一時を過ぎた店内はほぼ満席のままで味への期待を持たせた。
各自が好みのパスタを頼み、大皿のシーザーサラダとカプリチョーザピザを取り分けることを由紀が提案してくれた。このレストランは由紀が決めたらしく、顔馴染みと思われるウェイターと挨拶を交わした後、四人分のオーダーを注文した。
シーザーサラダを手際よく取り分けながら由紀が口を開いた。
「今まで大高さんのことお洒落な男性と思ってたんですけど、笠辺さんも相当お洒落ですよね」
「それは嬉しいお言葉ですね。小林さんも女性ファッション誌から抜け出したみたい」
由紀の思いがけない言葉に、玲も悪い気はしなかったが、本当に思っていることを伝えた。
「ツィードのジャケットにチノパン、ダウンジャケットなんて、うちの社員ではいない着こなしです。お洒落を理解しているからの着崩しなんでしょうね」
「昨日は雪の予報が出てたからね。傘を持ち歩きたくなかったからフード付きのダウンジャケットジャケットならなんとしのげるかなって」
シェフの手際の良さの表れだろうか、シーザーサラダを食べ終える頃にちょうど各自のパスタとピザが運ばれて来た。玲が注文したリングイネは歯応えがしっかり残り、少し塩気のある厚切りベーコンと玉葱の甘さのバランスがトマトソースにより引き立てられていた。ピザも薄目の生地はクリスピーな食感と少しの焦げ目が生み出す香ばしさが、薄味のピザソースによりトッピングされた素材そのものの味を生かしたものだった。
由紀との会話やイタリアンレストランでのランチを思い出しながら、新幹線に乗り込むまでの行動を思い返していた。
「二日間お疲れ様でした。それでは駅まで送りましょう」
イタリアンレストランを出ると大高は駅まで送ることを申し出てくれた。
「大高さん、駅前は渋滞してるでしょ?それにこれ以上仕事の時間を削ってしまうのも申し訳ない」
玲は大高の厚意を丁重に断った。それ以上に、二月とは思えない暖かさに外を歩くのも気持ちがいいだろうと考えていた。
「わかりました。それではお気をつけて」
「次の会議に笠野辺さんがどんなファッションでいらっしゃるか楽しみです」
由紀が後部座席に置いたままのダウンジャケットを渡しながら言った。そう言えば、朝ホテルで大高にピックアップしてもらった時から置きっぱなしだったことを玲は思い出した。
「今からプレッシャーを掛けますね。雑誌を見て研究しないと」
由紀が渡してくれたダウンジャケットに袖を通しながら答えた。
大高の車でオフィスに戻る三人を見送ると玲は駅に向けて歩き出した。駅までゆっくり歩いても新幹線の発車時刻まではコーヒーを一杯飲む時間の余裕がある位だった。
『カフェ・パシフィカ』と言う看板が目に飛び込んだのは、イタリアンレストランの前の道から角を右に曲がり一方通行の細い道を二ブロックほど歩いた時だった。
リラックスしたい時に好んで聴くラテンとジャズを融合させたグループの曲と同じ名前を持つそのカフェは、雑居ビルに挟まれながらも名前のとおり海辺のリゾート地にあっても違和感のない佇まいの小さなカフェだった。
その名前と雰囲気で躊躇することなく扉を開いた。カフェの店内は外観の雰囲気と違わずリゾートのカフェを思わせるものだ。正面には無垢の丸太から削り出したようなカウンターに木製のスツールが並べられ、右手にはテーブル席、観葉植物を間仕切りのように配備した奥にはソファ席があった。テーブルや椅子は暖かみのある木製で、白にペイントされたもの、木目を活かしたものと無秩序であることが不快ではなく、逆にデザインのアクセントになっていると感じたほどだった。
「こんにちは、お好きな席にどうぞ」
マリオン・メドウズだろうか、会話を妨げない配慮からか静かに流れるソプラノ・サックスの音色を打ち消すようなのウェイトレスの明るい声がカフェの店内に響きわたった。
『いらっしゃいませ』ではなく『こんにちは』と掛けられた声は、まるで自分自身がこのカフェの常連客であるかのような心地好さを感じさせてくれた。
「こんにちは、素敵な店ですね」
玲は感じたままを言葉にすると、壁に掛けられた絵や写真、マガジンラックにインテリアのように並べられた写真集や雑誌を横目で見ながら観葉植物の奥のソファ席に向かった。
メニューと水の入ったグラスを持ち玲の後に続くウェイトレスが微笑みながら答えた。
「ありがとうございます。ご注文が決まりましたら、お呼びくださいね」
「気分的にはフローズンダイキリだけど。。。アイスアメリカーナをお願いします」
メニューの中心で目に留まったアイスコーヒーを注文した。玲の注文の仕方が面白かったのかウェイトレスはクスッと笑いながら注文を確認した。
「はい、フローズンダイキリではなくアイスアメリカーナですね。少々お待ちください」
ランチタイムを過ぎ二時半に近い時間帯だったこともありカフェの店内にいる客はそれほど多くなかった。春になり気温が上がるとガラス扉をスライドさせ、歩道沿いにオープンエアを作り出すだうのだろうか?観葉植物に仕切られたガラス扉から少し離れたソファ席でも日差しが届いていた。
新幹線の発車時間までコーヒーを飲みながらパソコンを立ち上げてメールをチェックするつもりであったが、既に頭の中から仕事のことは消えていた。カフェの店内の様子が気になりソファ席から立ち上がり周りを見回した。
壁に掛けられた絵画や写真は海や自然を思い出されるもので、遠目にノーマン・ロックウェルと思われるカレンダーも見えた。コルクボードは掲示板として利用しているのだろうか、ライブハウスの案内やバイクやディンギーの個人売買、ヨットのクルー募集が掲示されていた。
インターネットの時代だからこそカラフルな手描きのポスターや案内広告が新鮮に感じられた。このカフェにはたくさんの常連客が存在し交流の場になっているだろうことが容易に想像できた。
玲は三十分後に迫っていた新幹線の予約を、インターネットから一時間送らせた。このカフェの居心地の良さをもう少し感じていたいと考えたからだった。
マガジンラックに目をやると何冊かの写真集や雑誌に混ざって落書きノートがあった。ノートを手にソファ席に戻り最初のページの書き出しを読み始めた時に、レモンの輪切りが浮かぶピッチャーを手にしたウェイトレスが声を掛けてきた。
「何でもお好きなこと書いてくださいね」
「そうですね、また来たいと書くことにします」
微笑みを残してカウンターに戻るウェイトレスは、店のドアが開いたことに気付くと明るい声を響かせロベルト・フォンセカのピアノの音色を一瞬遮った。
「こんにちは、今日は少し早いですね」
常連客なのだろうか、上品そうな初老のカップルがコーヒーとアールグレイを頼みながらカウンター席に並んで腰を掛けるのが見て取れた。
落書きノートの最初のページはあのウェイトレスが書いたのだろうか、女性らしく几帳面な筆跡が踊っていた。
『カフェ・パシフィカにようこそおいでくださいました。皆さまからのご意見、ご要望、メニューやBGMへのリクエスト、何でもお書きください。皆さまに愛される店造りに役立てさせていただきます。スタッフ一同』
ページを送ると意外にも常連客の書き込みに混じり、玲のように偶然来た客の書き込みが目についた。そのどの書き込みにもスタッフからのお礼とコメントが記されていた。
『素敵なインテリアに包まれ心地良い時間を過ごすことが出来ました。次はフローズンダイキリを。。。RK』
駅に向かうと予約を変更した新幹線にちょうど良い時間になっていた。落書きノートに簡単なメモを記しカフェ・パシフィカを後にした。
『やっぱり、あのカフェに忘れたんだ』
昨日からの行動を思い返していた玲は確信した。新幹線に乗る前に気付いていれば戻って確認することは出来た。東京駅に着いたら電話しようと考えていた。
つづき「Incomplete Beginnings - 未完の始まり2」へ
コメント