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第8話『コンフェッション - 光と影の狭間』
スレンレス製のアイスバケットをディスペンサーにセットしボタンを押すと、ガラガラと大きな音を立てながら氷が補充されて行く。静まりかえった廊下に響いて申し訳ないと思うほどの大きな音だ。部屋に戻る廊下は静かで、人の声も音楽もテレビの音も聞こえない。
エレベーターホールを通り越し正面のドアからテレビのニュース音声が漏れている。中には実可子がいるからドアを閉めても良かったのだが、いつもの習慣からセキュリティロックのバーをドアに挟んだまま部屋を出ていたのだった。
「カウチにでも座っていれば良かったのに」
部屋に戻った玲が実可子に言った。
「外を見てました。真っ白な世界。。。晴れていたら夜景が綺麗でしょうね」
実可子は振り返って微笑みながら言った。
「そこに座ったら?」
玲はカウチを指差し、カウチの前に置かれたオットマンを自分の方に引き寄せた。実可子がカウチに姿勢良く座ると、向き合うようにオットマンに跨がった。
「コーヒーお継ぎします」
玲がテーブルに置いたアイスバケットからテーブルの上に用意した二つの異なるグラスに氷を入れ、缶からコーヒーを注いだ。タンブラーを玲に渡し、自らはシャンパングラスを手にした。
「コーヒーで良かったの?」
黙って頷く実可子のシャンパングラスに自らのタンブラーを押し当て、実可子に言った。
「改めて誕生日おめでとう。大変なバレンタインと誕生日になってしまったね」
「でも、こうしてご一緒できたので。。。仕事でお疲れなのにご迷惑でしたよね?」
「そんなことは気にしなくていいよ。でも、驚いたよ」
「ごめんなさい、こんなこと初めてです。自分でも大胆な行動だと驚いてます。。。由紀ちゃんのお陰かなぁ?」
「由紀のお陰って?」
「言われたんです、女は甘えた方がいいって」
「そうかも知れないね。きみは出来る女というオーラに包まれているよう思える。会って数時間だけど、男に甘えるような素振りは見えなかったのは事実かな」
「出来る女ですか?自分では意識して無いんですけどね」
実可子はそう言うと、シャンパングラスからコーヒーを飲むと恥ずかしそうに俯いた。
ふたりの間に流れた沈黙の時間を破ったのはCNNが伝えたニュースだった。パキスタンの大学でバレンタイン賛成派と反対派の衝突により怪我人が出たというものだった。
「パキスタンとバレンタインって結びつかないなぁ」
「そうですね、イスラム世界で女性から愛を告白するってあるのかしら?」
「どうなんだろうね。まったく考えたこともなかった。女性が教育を受ける権利を訴えてタリバンに襲撃された女の子ってパキスタンじゃなかった?」
「あっ、イギリスで治療を受けて、国連でスピーチしましたね。パキスタンだったんですね?」
更にCNNはアンジェリーナ・ジョリーの主治医が横浜のシンポジウムを行ったことを伝えた。
「ショックでした。そして、自分だったどうするんだろうって考えました」
実可子は、乳癌予防のために自らの乳房を切除したアンジェリーナ・ジョリーの行動にショックを受けたことを語った。
「乳房って、ある意味女性の象徴じゃないですか?すごい勇気だと思います」
「自分だったら?答は出たの?」
「いいえ。考えてもわかりませんでした」
「パキスタンの少女もアンジェリーナ・ジョリーも女性としてと言うより人間として尊敬に値する。やっぱり、男は女には敵わない」
「あら、玲さんからそんな弱気な言葉が出るなんて」
「だって、全ての人間は女から生み出されるだろ?ダ・ヴィンチやアインシュタインみたいな天才もおれみたいな凡人も」
「でも、女ひとりでは生めませんよ」
「それはどうだけど」
再び訪れた沈黙に少し気まずい空気が流れた。その沈黙に押し潰されそうに実可子が口を開いた。
「正直にお話していいですか?」
「何?何でも話してみて」
「わたし昨日から、あっ日が変わったから一昨日です。ドキドキしてなかなか寝付けなかったし、何度も目が覚めてしまいました。遠足の前の小学生みたいに」
実可子は両手を膝の上にのせたまま姿勢良くカウチに座っていた。
「どうして?アンジェリーナ・ジョリーのせいじゃないよね」
「それはないですね。自分自身でも良く解らないんですが、ひとつは交際を申し込まれていることと。。。。あと、ひとつはあなたにお会い出来るかも知れないことでした」
「おれに会える?」
「どんな方かも解らないのに変ですよね?美鈴ちゃんの話と、ノートの文字と。。。」
「がっかりさせなかった?イメージした人間像と違って」
「がっかりしてたら、ここには居なかったです。雪で電車が止まってたのは幸いでした、自分に言い訳が出来たのですから」
「よく解らないのになぜ?もしかして、交際相手から逃げ出す口実が欲しかった?」
「交際は始まってないんです。申し込まれてはいるんですが。。。」
「それなら、はっきりと断ってあげないと可哀だと思うよ」
「それとなくは伝えている積もりなんですけど。。。だめな女ですね、わたし」
「まあ、勘違い男でストーカーになられても怖いし。。。確かに難しいよね」
何かに葛藤しているのだろう、明らかに戸惑っているような表情を見せる実可子を諭した。
「何か思い詰めてる?何が出来るかは解らないけど、話を聞くことはできるよ。そして、秘密も守れる」
「ありがとうございます。こんなとき由紀ちゃんなら『玲様、話してごらん由紀って言ってくれたら何でも話します』って言うんでしょうね?」
「そうだね。話してごらん実可子」
初めて会った由紀を意識しているのか実可子は由紀の明るさやごく自然には素直な振る舞いが出来ることを羨ましく感じていた。
そして、思いもよらず玲から発せられた背中を押す言葉に微笑みながら頷いた。
「変わった女と思われてしまうかも知れませんが、玲さんのことをもっと知りたいと思う反面、これ以上知ってはいけないとも思うんです」
「そうなんだ?でも良く解らない」
「恥ずかしいんですが。。。わたし性に対して決して興味がない訳では無いんですが、経験も乏しく本気で感じたという感覚も知らないんです」
自らの性を初めて会った男に話す自分自身に驚いていたが、不思議と恥ずかしいという感覚は薄れていると実可子は感じていた。そして、シャンパングラスからコーヒーを飲むと、玲が何か言ってくれるのを待った。
玲は実可子の恥ずかしそうな表情を楽しむかのように瞳を真っ直ぐに見つめたまま、タンブターに口を寄せてコーヒーを飲んだ。
「変ですよね?こんなことをいきなり言うなんて」
何も言ってくれない玲に言葉を発して欲しいのか実可子は質問とも意見とも取れる言葉を発した。
「誰にでも光と影があって当然だから、何も変ではないよ。自分自身に正直に向き合うことは。。。それを言葉に出すのは勇気が必要だと思うよ」
「そう言っていただけて、気持ちが楽になります。淫乱な女と思われてしまうかも知れませんが、見ず知らずの大人の男性にめちゃくちゃにされてしまいたいと。。。」
玲は実可子を見つめたまま、唇を重ねて続きの言葉を遮った。
「だめだよ、めちゃくちゃにされたいなんて言ったら。それに、めちゃくちゃにって意味を理解しているのか?」
「言われたことは何でも。。。」
「そんなことを考えて自分自身でしてたのか?」
「えっ、それは。。。恥ずかしい」
「言われたことは何でもするんだろ?だったら、訊かれたことは何でも答えなきゃだめだよ」
「玲さん、もしかしたら本当にS様なんですか?」
「どうだろうね。Mではないのは間違いないと思うけど。恥ずかしそうな表情を見るのは好きだね」
「由紀ちゃんの判定通りですね。。。。わたしはM?」
「その表情を見れば。。。そう思うよ。さぁ、質問に答て」
「はい、まだ知らないのにマフラーを忘れた男性を想像しながら。。。。」
「さぁ、おいで」
実可子の手を掴むと立ち上がりバスルームに向かった。壁一面が大きな鏡の前に実可子を立たせ後ろから抱き締めた。趣味でフラメンコのレッスンを受けているという姿勢の良い実可子は、首筋にキスをされると、頭を仰け反らせた。玲が手のひらに実可子の柔らかな乳房の感触を感じると、実可子はフラメンコの姿勢を保つのが困難になったかのように両手を洗面台につき体重を預けてしまった。
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