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第5話『ホワイト・バレンタイン - ヴァージンカクテル』
自然な寝起きで見たベッドサイドの時計はアラーム設定をした時間の五分前だった。昨夜は、そわそわ落ち着かずベッドに入ったと思えば、すぐに抜け出しソファに座り手にした雑誌のページ捲りまたベッドに戻る。そんな行動を何度か繰り返す後にいつの間にか眠っていた。子供が遠足の前の日に感じる高揚感を感じているようで可笑しかった。
『なんでドキドキしてるんだろ?』
声にならない独り言を呟いてスマートフォンを手にした。メールの着信は『カフェ・パシフィカ』のウェイトレスの吉川 美鈴と竹中 隆一郎だった。竹中のメールは昨夜から今朝に掛けて三通来ていた。
『参ったな、お断りしたつもりなのに』
竹中のメールを開くのは憂鬱だった。それにメールの内容は想像出来るものだった。知り合いを通じて知り合った年下の竹中とは数回食事をしたもののステディな付き合いを考えてはいなかった。それとなく、その雰囲気を出していたつもりであったが、竹中は前回食事をしたときに『真剣に付き合いたい』意思を言葉尻に混ぜはじめていた。そして、バレンタインデーを迎える今日の予定を何度も聞かれていた。
『おはようございます。実可子です。ごめんなさい、今夜は先週から決まっていた予定がありますので時間が取れません。』
憂鬱な気分で返信すると間髪を入れずに竹中からのメールを着信した。
『わかりました。今日は諦めます。都合の良いときに、また食事にでも行きましょう。隆一郎』
やんわりと断っても逆効果かも知れないと思いつつ、強く言えない自分自身に苛立ちを覚えた。
『曖昧な態度がいけないのよね』
頭では理解していても、言葉に出すことは難しいと感じながらも、気分を変えてくれるであろう美鈴のメールを開封した。
『実可子おねぇさま、おはようございます。バレンタインデーの目覚めはいかがですか?今日はRKさんがいらっしゃる予定です。バイトは休みですが夜お店に顔を出す予定です。美鈴
PS 今日は、例の彼氏さん候補とデートですか?』
『彼氏の候補じゃないのに』
一度だけ竹中を『カフェ・パシフィカ』に連れて行った時は美鈴のアルバイトのシフトが入っていた。年下の竹中は誠実な男であることは間違いないものの、いつも実可子の顔色を伺うような自信が無いような態度に物足りなさを感じていた。二十七歳の竹中より五歳年上ということに違和感を感じている訳ではなく、妥協するより充実感を感じる今の仕事を優先的に考えていた。
『美鈴ちゃん、おはよう実可子です。竹中さんは彼氏候補じゃないわよ、ただの男友達です。今の私には仕事が恋人かな!? 私も仕事が終わったらお店に寄らせてもらいます。じゃあね』
メールを送信するとカーテンを開きベランダの手摺に積もり始めた雪に驚いた。窓を開き手を伸ばしベランダの雪を両手で掴み取った。大きさの異なる二つの団子を重ねて雪だるまを作りキッチンに置いた。
『またまた美鈴です。了解です、じゃあ今夜!』
美鈴からの返信を知らせる着信音が鳴ったのとほとんど同時だった。
大高はプロジェクトの進捗を示すタイミングチャートをプロジェクターに映しながら、各部署のステータスの報告を受けていた。
「各部署の皆さんのご苦労により、プロジェクトはオントラックであることが確認出来ました。プロジェクト・リーダーとして感謝します。では小林さん、ホワイトボードをコピーして皆さんに配ってくださいた」
パソコンを操作し続ける由紀が一瞬その手を止め顔を上げて答えた。
「あと三分待って頂ければ議事録として印刷出来ますが、いかがでしょうか?」
「それではプリントアウトはせずにメールに添付して配信しましょう。嶋田くんの達筆だと、後で解読不能になる可能性があるから助かったよ」
大高の返事に会議参加者から笑いがこぼれた。
「大丈夫ですよ嶋田さん、ぼくのメモよりかなり読めますよ」
自身のメモですら後で悩むことがある玲が嶋田をフォローした。
議事録を作り終えたのか立ち上がった由紀がよく通る声で伝えた。
「笠野辺さんにはメールでお送りします。プロジェクトの皆さんはデータベースに貼り付けますので必要であればご自身でお願いいたします」
「ありがとう。じゃあ、皆さんお疲れ様でした。これでプロジェクト会議を終了します。結構雪が積もっているようですのでお気を付けてお帰りください。今日は残業禁止です」
会議参加者から笑いがこぼれ、皆が立ち上がりながら挨拶をし退室して行った。
「お疲れ様でした」
「笠野辺さん、ありがとうございました」
会議参加者が退室すると会議室には大高、嶋田と由紀のプロジェクトの中心メンバーと玲が残った。
「嶋田くん、今日はどうする?合流するか?」
「大高さん、笠野辺さん、すみません。今日は野暮用が」
「嶋田さん、野暮用なんて言ったら、彼女に怒られるよ。ロマンティックなバレンタインにしてあげないと」
「そうですね。チョコレートの何十倍の見返りが期待出来女性にはいい習慣ですよね」
「あっ、そんなこと言うなら嶋田さんへの義理チョコは自分で食べちゃおうかな」
そう言うと由紀はバッグから取り出したリボンを掛けた小さな箱を嶋田の目の前から引っ込める仕草をした。
「厳しいな由紀ちゃんは。最近、本当に大高さんのDNAを感じるよ。そう思いません、笠野辺さん?」
「そうですね、仕事を合理的に進めるところは完全に大高さんのDNAですね」
「笠野辺さんにそう感じていただくのは嬉しいです。これはお礼です」
そう言うと由紀はバッグから別の小箱をふたつ出すと、玲と大高に手渡した。
「えっ、ぼくにまでくれるんですか?どうもありがとう」
玲は、由紀の気配りやユーモアのセンスが大高の影響を受けていると改めて感じた。
「さすが大高チルドレンですね」
大高は、自分が褒められていることのように目を細めて言った。
「その内、私が彼女の指示で動くようになるかも知れませんね」
「はい、嶋田さんのチョコは辛子を練り込んであります」
「愛情たっぷり、辛子もたっぷりね。辛党だから大丈夫。そうそう、大高さん例のバンド関係者は稲葉さんという方でやっぱり『カフェ・パシフィカ』で調理してるそうです。オーナーの渡辺さんの古くからの友人だそうで。行ったら訪ねてみてください。嶋田がよろしくと言って貰えればわかるはずです」
「それは凄いな。嶋田さんの顔が広いのか世間が狭いのか It’s a small world ですね」
「じゃあ、小林さんタクシーを呼んでくれるか?」
「私が運転しましょうか?笠野辺さんをホテルにお送りしてから大高さんのお宅まで行きます。週末は私が車を自由に使わせていただいて月曜日の朝、お迎えに。いいですか?」
「車は構わないけど、それじゃきみが飲めないじゃないか」
「それはお気になさらずに。私はヴァージンカクテルを頂きます。それに土曜日は早起きしてスノーボードに行きたいんです。いいですか?」
「もしかしたら計画してただろ?確信犯だな」
「はい、大高さんなら許してくださるだろうと綿密に計画を立てました。レンタカー代が浮くので今日は私がご馳走します。バレンタインだし日頃の感謝も込めて」
「義理とは言え、チョコレートをもらったんだから感謝はそれで十分だよ。笠野辺さん、やっぱり彼女の方が一枚上手でしょ?」
「さすが大高さんのDNAを受け継いでいるだけのことがありますよ。大高さんを納得させる満点のプレゼンテーションでしたね」
「じゃあ、そろそろ行きましょうか?車に慣れるために運転してもらおうか」
「わかりました。じゃあ、嶋田さん由紀子さんと楽しんできてくださいね」
「笠野辺さん、由紀と由紀子で一字違うだけで全然違うんですよ」
「子があると可愛いくて、子が無いと可愛いげが無いと言いたいんですか?チョコに毒を入れて置けば良かったかなぁ」
「本当に、口が達者になったよな。じゃあ、笠野辺さん、次回はご一緒させて頂きます」
「はい楽しみにしてます」
会議室を出て駐車場に向かうと車の屋根には雪が積もっていた。大高の車に辿り着く数十メートルは除雪がされてなくフカフカの雪の絨毯を歩いているようだった。ワイパーが立てられているのは北海道出身の嶋田が気を効かせてのことだった。手袋をはめた手でウィンドシールドの雪を大高が振り払うと、玲はバックウィンドウ、由紀はサイドウィンドウの雪を振り落とした。
車に乗り込むと、由紀は一瞬ホイールスピンをさせたが車の制御システムが稼働しスムーズに発進した。スタッドレスタイヤと四輪駆動のお陰で積雪路面も安定感を失うことなく、ノーマルタイヤでノロノロと走る車を抜き去って行った。スノーボードに行く時に自ら運転することもあると言う由紀の運転には不安を感じることはなかった。唯一、カフェの前の歩道脇に縦列駐車をする時に由紀の弱点露呈した。
「縁石までどれくらいですか?」
由紀は三度目の切り返しの後に助手席に座る大高に尋ねた。
「歩道まで歩いて行ける距離だよ。けど、車の半分しか入ってないよ」
大高の答はウディ・アレンが映画で言ったセリフのようだと玲は感じ、後で訊いてみようと思った。
カフェの前はガードレールの無い歩道で等間隔で街路樹が植えられていた。路上に駐車された前後の車は雪に埋もれ、運転を諦めた持ち主に放置されたのは明らかだった。
「小林さん、代わろうか?義理チョコのお礼に」
少し焦り始めた由紀に思わず声を掛けた。
「大丈夫です、あと三回位切り返せば。でも笠野辺さんが『由紀、頑張れ』って言ってくだされば一回で決められそう」
「小悪魔だなぁ、小林くんは」
助手席の窓を降ろし歩道側を見ていた大高が思わず口走った。
「さあ、頑張れ」
玲にとってはクライアントの社員である。さすがに『由紀』と言うのは憚った。
「これでどうですか?」
二回目の切り返しで車は歩道の縁石から三十センチ程度に停められた。一方通行の通りは路肩の駐車スペースを入れても十分な道幅があった。そして目的地のカフェの看板は雪の白さが加わった暖色系のライトに照らし出されていた。
「今晩は。何名様ですか?」
『Cafe Pasifica since 2012』とロゴマークが浮き彫りになったガラスが嵌め込まれた木の扉を開くと、カウンターの横に立つウェイトレスの明るい声が聞こえてきた。
「今晩は。三人です」
先週来た時にいたウェイトレスの吉川 美鈴とは別人だと気付いたが玲が答えた。美鈴なら自分だと気付いてくれたかも知れないとも思った。
「ソファ席とテーブル席のどちらがよろしいですか?」
「食事もしたいのでテーブル席でお願いします」
大高が答えると、ウェイトレスは先に立ち白い壁の前の大きなテーブル席に案内してくれた。
「今日は雪なので窓際の席は寒いと思います。こちらの方が寒さを感じないと思います。よろしいですか?」
「こんなに広い席に三人では申し訳ないけど」
大高は、そう言いながらカフェの店内を見回すとカウンターに常連客と思えるカップルとテーブル席にもう一組のカップルが居るだけだった。
「生憎の天気なので今日はあまりお客様もお見えにならないと思います。今、メニューをお持ちしますね」
ウェイトレスがカウンターに戻りグラスに水を注ぎ始めた。
「本当に素敵な雰囲気のお店ですね」
店内を見回しながら由紀が感想を伝えた。
昼間の明るい店内も素敵でしたよ。ビーチ沿いのカフェみたいで」
「そうでしたね、前回ひとりでいらした時は、新幹線の時間調整とおっしゃってましたね」
「いやぁ、実は新幹線の予約を一時間遅らせて少しゆっくりしてました」
ウェイトレスがグラスとメニューを持って戻って来た。
「メニューをお持ちしました。お決まりになりましたら、お声を掛けてください」
「すみません。以前マフラーを忘れてしまい、預かって頂いてるのですが」
玲が、ウェイトレスに尋ねると間髪を入れずに頷いた。
「はい、今お持ちしますね」
そう言うと、直ぐカウンター横のキャビネットから紙袋を持って来た。紙袋はリサイクル紙の素地を生かし紺色のインクで『Cafe Pacifica since 2012』と看板と同じロゴマークがプリントされているものだった。
「お確かめください、これで間違いありませんか?」
紙袋の隙間から覗くのは、この約十日間首に巻くことが出来なかったマフラーだった。
「ありがとう、これで間違いありません」
そう言いながらマフラーを引き出すとメモ紙が一緒に飛び出しテーブルに落ちた。
『RK様、マフラーを手にされているということはフローズンダイキリを召し上がっているのでしょうね。今日は忘れませんように。カフェスタッフ 吉川 美鈴』
メモを読むと先日のウェイトレスが書いたものだった。
「笠野辺さん、フローズンダイキリになさいますか?」
「はい、そうします」
「じゃあ、ぼくも。小林くんは何にする?」
「そうですね。このお店の雰囲気だと真冬でもトロピカルドリンクですね。何かお薦めはありますか?」
「笠野辺さんもぼくもフローズンダイキリだから、ストロベリーダイキリなんかどう?もちろんヴァージンだけど」
「はい、じゃあそれで」
大高と由紀の会話を微笑みながら聞いていたウェイトレスがオーダーを確認した。
「フローズンダイキリをおふたつとヴァージン・ストロベリーダイキリ、少々お待ちください」
「ナチョス、それからコブサラダ、ポップコーンシュリンプもお願いします」
「はい、かしこまりました」
ウェイトレスは会釈しカウンターに戻ると中に入り厨房に向かってオーダーを伝えた。
由紀はテーブルに落ちたメモに興味を示していた。
「なんで笠野辺さんのイニシャルを知ってるんですか?」
「そうか、話してなかったなぁ。この店の落書きノートに書き込んだから。小林さんも書く?」
「見てみたいです」
「ちょっと待ってて」
そう言うと、玲は立ち上がりソファ席に向かい十日前に自身が書き込んだ落書きノートを手に取った。ページを青いペンで書かれた見覚えのある筆跡を見つけると、その下に書かれた伝言を読んだ。マフラーの忘れ物を尋ねた電話でウェイトレスの美鈴が読み上げてくれたMIこと伊原 実可子のものだった。
ノートを手にテーブル席に戻るのと同じタイミングでフローズンダイキリとストロベリーダイキリのグラスが運ばれてきた。そして、その直後に玲が視界の端に捉えたのはドアを開け入って来る見覚えのあるウェイトレスの美鈴ともうひとりの見たことの無い女性だった。
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