麻莉子[2]_ハッピーライフ-官能小説(happylives-novel)

牝獣(ひんじゅう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜 ——日野草城

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麻莉子[2]

15-06-14 10:20

この話はつづきです。はじめから読まれる方は「麻莉子[1]」へ

外の空気を胸いっぱいに吸い込んで、並木の下の歩道を歩き出す。
脚や頬を撫でる風がまた少し冷たくなった気がする。
こんなことなら今朝、アパートを出るまえにストールを持参するんだった。
それさえ省けば、ほかは大して後悔しそうな格好ではない。温かいものを飲みたい気分ではある。

『あ……は………さ…る』

帰宅途中にいつも立ち寄る場所があり、そこの女性スタッフの話によれば、そろそろ秋の季節メニューがお目見えするということだった。
コーヒーとベーカリーの店で、四十代後半ぐらいの男性店主がわざわざ海外から取り寄せたレコードプレーヤーの上では、毎日ちがうレコード盤がまわっている。
ぜひとも、私がお婆ちゃんになっても続けていて欲しい、そう思わせてくれるアットホームな雰囲気がたまらなく好きなのだ。
ほらもうすぐそこに、目印のトーテムポールが見えてきた。
いくつもの木彫りのマスクが縦一列に連なった、コーヒーショップには不釣り合いな代物だ。
私のブログには度々登場する、言わばマスコット的な役割を果たしている人気者。

「いらっしゃいませえ」
と言ったのはトーテムポールではなく、愛想の良いアルバイトの女の子だった。
店内に入るなり、焙煎したコーヒー豆のいい香りと、食欲をそそる自家製パンのふくよかな匂いに包まれる。
客のほとんどが女性ということもあり、異性に気兼ねなく大口を開けて談笑する人もいれば、食べきれないほどのパンを取り分けて、これまた大きな口でかぶりつく人もいる。
何人かの視線が私を射抜いたような気がしたが、その目から興味の光が消えるのも早かった。
男性客は一人のようだ。大学生風のその彼は、女性だらけの店内で完全に浮いてしまっている。
その背中を横目で見送ったあと、私はカウンターで飲み物を注文した。
マロン風味のホイップが乗った、秋にしか味わえない大人のラテだ。

サイフォンがぶくぶくと音を鳴らし、レコードプレーヤーからは懐かしい曲が流れてきた。
昔付き合っていた彼氏がよく聴いていたので、これがビートルズの曲だということを私は知っている。
洋楽音痴な私のために、彼らがどれだけメジャーなロックバンドであるかを、当時の彼は熱心に話してくれていた。
その隣で私は彼の言葉に相槌を打ちながら、きっとこの人と結婚するんだろうなと、淡い妄想を抱いていた。
結局その彼とは結婚しなかった。唐突な別れだったのだ。
価値観の不一致、というのが双方の言い分だったような気がする。
心の傷はイーブンだったのかどうか、そんな冗談が浮かぶようになったいま、もうどうでもいい過去の話だと思った。

飲み物を受け取ると、歩道が見渡せる窓側の席に私は座った。
簡素なカフェテラス席もあるにはあるけれど、そこは喫煙者用になっていて、煙草を吸わない私には無縁のエリアである。
コーヒーカップを口まではこび、栗の香りがする泡ごと一口啜った。

おいしい──。

マロンクリームの濃厚な甘味とエスプレッソの苦味が口中にひろがり、喉を通っていく温度が消えないうちに息をつくと、豆本来の芳香が鼻から抜けていった。
コーヒーを語るつもりはないけれど、この一杯が私の気持ちをしあわせにさせたのは事実だった。
今度はバッグの中を探って携帯電話を取り出した。
未読のメールに目を通し、てきとうなアプリを起動させて、人生でもっとも無駄な時間を費やすことにした。
一見無駄に見えるこの時間こそが、人が生きていくうえでじつに重要な意味を持っているのだと、どこかの大学の偉い教授が吹いていたような気がする。
そんなときに着信があった。

「もしもし、歩美?」
と電話の相手に私は言った。
大学時代の友人の中でもとくに仲の良かった彼女は、今年の六月に結婚したばかりの新妻だ。いわゆるジューンブライドというやつ。

「おみやげ渡したいんだけど、いつ会える?」

新婚旅行から帰ってきたから、積もる話もあるという彼女。

「まったく歩美ったら、しあわせそうな声出しちゃって」

「こんな声で良ければ、いくらでも聞かせてあげるよ」

つい先ほど、一杯のコーヒーから得られた私のしあわせとは次元のちがう幸福を、彼女は手に入れることができた。
しあわせの度合いや感じ方は人それぞれあるけど、女のしあわせはやはり、結婚して出産することに尽きる。
友人の長電話の相手をさせられながら、私は店の外をちらちらと眺めていた。
ちょうど歩道側に正面が向くかたちで座るこの席は、足元までがガラス張りになっている。
つまり、いまの私のようにスカートを履いた女性が座れば、道行く男性らの視線を集めることになる。
あの人も、あっちの人も、みんな私の脚に下心を引き寄せられて、スカートの奥を見透かそうと首をねじっている。
その様子が滑稽で、可笑しくて、男心を手のひらの上で転がしている気分になった。
それができるのは女だけだったりするわけだから、ちょっとしたゲーム感覚というのか、『駆け引き』がしたくなる。

「いまね、窓側の席でコーヒー飲んでるんだけど、外を通ってく男の人がみんなあたしのほうをチラ見してんの」

私は電話の向こうの歩美に言った。そうやっ通話しながらも視野を広め、下着が見えるか見えないかのボーダーラインを見極めた仕草で、彼らのハートに訴えかける。

「人妻には人妻の良さがあるんだから、はやく落ち着くところに落ち着いたらどう?」
と歩美。その通りだと思う。
ふとした瞬間、背中で誰かが笑ったような気がした。
陰湿な性質を持った、とても不気味な感覚。
私は警戒心をお腹に込めて、後ろを振り返った。
ここに来たときと変わらない風景があるだけで、不審な点はどこにもない。
スタッフにはスタッフの、客には客の営みがあるだけだった。

「もしもし?聞いてる?」

返事をしない私を心配して、歩美の呆れた声がしていた。
どうやら少しのあいだ、彼女の独り言になっていたようだ。

「あ、ごめん。なんでもない」

私は平静を装いつつ、今日はさっさと帰ったほうが良さそうだなと直感した。
思わぬところで水を差されたかたちになったけど、どうもやっぱり体調が優れない。

ここでも化粧室を借りることになった。泌尿器が衰えてきているのか、子宮や排卵の状態を疑えばいいのか、いずれにしても病院で診てもらったほうがいいようには思う。
思うけれど、体裁が気になって行きづらい。

もう少し様子を見よう──。

私が店を出ようとしているとき、ただ一人の男性客は相変わらず浮いたままで、耳にイヤホンを詰めて俯いていた。

つづき「麻莉子[3]」へ


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