ヴァギナビーンズ症候群「5」_ハッピーライフ-官能小説(happylives-novel)

牝獣(ひんじゅう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜 ——日野草城

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ヴァギナビーンズ症候群「5」

15-06-14 10:32

この話はつづきです。はじめから読まれる方は「ヴァギナビーンズ症候群「1」」へ

傘を持って来なかったことに気付いたのは、河原崎家に到着してすぐのことだ。
約束の時間はもうとっくに過ぎていて、昼食もとれないまま急いで来てみれば、夕立のごとく降りしきる雨は視覚を鈍らせるほど勢いよく落ちてくる。
こんなときに限って傘を置いてくるなんて、シャワーの中に飛び込めと言われているようなもんだと、琴美は車から降りるタイミングをなかなか決められずにいた。

雨のせいで道が混んでいたこともあり、河原崎郡司(かわらざきぐんじ)から提示された時間よりも一時間ほど遅れてしまっている。
彼の機嫌を損ねてしまえば、せっかくの取材が白紙に戻ってもおかしくない。彼に会わせる顔もないし、このまま帰ってしまおうかと琴美は思った。
その時、河原崎郡司の家の中から誰かが出て来る気配があったが、雨が視界を遮ってよく見えない。
玄関のあたりで黒い傘が開いた。人影はそのまま琴美の車までやって来て、運転席側で立ち止まる。
琴美はその人物と目が合い、即座に仕事の顔をつくって、どうもと会釈した。

家の中からでも外の様子は容易に想像できた。雨戸に叩きつけているのが液体とは思えないほど、その音は破壊力を含んで聞こえた。
居間に通された琴美は畳の上に正座して、台所でお茶を煎れる初老の男の背中をうかがう。
やがて盆に急須と湯呑み茶碗を乗せた郡司がのらりくらりと帰ってきて、熱いから気をつけなさいと言いながら、卓袱台にそれらを並べた。

「あの、こちらから取材をお願い差し上げたのに、こんなことになってしまいまして、申し訳ありませんでした」

琴美は三つ指をついて頭を下げた。
これについては郡司にも思うところがあったのだが、すでに反省の色を示している若い娘を言葉でなぶるのは気がすすまなかった。

「橘さんとか言いましたな」

「はい……」

「わたしが甘い物を好んでいるということを見抜いていたのかね?」

琴美の膝元に置いてある菓子折りを見つけて郡司が言う。

「お口に合うかどうかわからないですけど」と箱を手にかしこまる琴美。
それはつい先程『シュペリエル』で買っておいたカスタードプリンだった。

「これは洋菓子のようだが」

「はい。カスタードプリンです」

「ほんとうは、甘い物は医者から止められているのだがね」

「あっ、す、すみません。すぐに別の物を買ってきます」

「いいや結構。医者という連中は、どうやら患者の楽しみを奪うのが仕事らしい。橘さんも長生きしたければ、医者の言うことなんかは聞かんほうがいい」

郡司は肩をゆすって笑った。
彼につられて琴美の表情にも余裕ができてくる。

「これはなかなか、ハイカラな味がしますなあ」

美味しそうにプリンを食べる郡司を見るうちに警戒心が解けて、琴美は嬉しくなった。ほっと安心してみると、今度は琴美のお腹がぎゅるると鳴り出す。

「すみません。お昼、まだ食べてないんです」

これでは恥の重ね塗りだ。琴美は赤面しながら苦笑いするしかなかった。

「きみは、ダイエットとは縁がなさそうな人に見えるな」

「いいえそんな……。でもダイエットは一度もしたことありません」

彼の言わんとしていることが琴美にはわからなかった。
河原崎郡司という人物は、年齢の割にはいかつい体格の大男だ。その彼が立ち上がるとたちまち天井は低くなり、二歩、三歩と進めば山が唸り声をあげながら動いているようだった。
彼はどこかに電話をかけると、またすぐに戻って来た。何を企んでいるのかまったく読めない代わりに、彼の中には悪戯な少年が棲んでいるのではないかと琴美は思えてならない。

「さて、ただの絵描き爺にどんな話をさせるつもりかね?」

取材を始めようかという意味で郡司はそう言った。
彼の本職が画家であることを思い出し、琴美はペンと大学ノートを構える姿勢をとった。

日本家屋のあるべき姿だといえば大袈裟だが、古めかしい家具や柱のひとつひとつにも年輪を感じさせる味が滲んでいた。大きな掛け時計が二時二十分を指していても、それが正確な時刻かどうかも怪しく思えてくる。
琴美は焼き飯と中華そばを腹におさめ、郡司もまたおなじものを台所で黙々と食べていた。さっきの電話は出前をとる為のものだった。

「ごちそうさまでした。このお返しはかならずさせていただきます」

郡司はそれには答えず、「わたしのアトリエに案内しよう」と琴美を連れて裏口を出る。

ここでも傘が必要になった。郡司のアトリエは母家とは少し離れた場所にあり、その建物だけは近代建築の外観を見せていてまだ新しい。
あの著名な河原崎郡司の絵画を間近で観ることができるなんて、それだけで琴美の胸はひどく震えた。
それにしても雨は相変わらず水鉄砲のように傘をなぐり、仕事場に着く頃には郡司も琴美も着衣を湿らせる始末だ。

「まったく近頃の雨ときたら、年寄りや女子供にまで容赦がない。儲かるのは雨具屋ばかりで、絵描きなんぞは日照りつづきだというのに」

郡司の言うことが可笑しく聞こえて、琴美の口からくつくつと笑い声が漏れた。
初老の大男は背筋を伸ばし、「笑っておれば福が付く。橘さんの器量に焦燥は似合わんということだ」と琴美に気遣いを見せる。
ここにきて初めて心から笑えたような気がして、彼に対する印象は琴美の中で良い方向に傾き出していた。

部屋に上がればそこは琴美の予想通りにというのか、油彩、水彩、アクリルの絵の具類やイーゼルにキャンバスなどの画材が散らかり、ほとんど足の踏み場もない。
そう見えてじつはそれぞれの画材には定位置があるのだと、郡司は白髪の目立つ頭をふさふさと撫でて言う。
温度や湿度に加えて換気状態にも管理が行き届いた、作品たちにとっては至れり尽くせりの環境といえる。

「やはりここがいちばん落ち着く。最期のときもここで迎えられたら本望だ」

「そうかもしれませんね。だけど河原崎さんはずっと長生きする気がします。だって、絵画に寿命はありませんから」

琴美から意外な返答をもらい、郡司は感心した。

「橘さん、歳はいくつかね?」

「二十四です」

「そのきみに訊こう。この絵を貞淑と見るか、不貞と見るか、どちらだと思う?」

彼が指差した方向にキャンバスを見つけ、琴美は静かに歩み寄って対峙した。それはまだ下絵が半ば剥き出しになったままの、描きかけの水彩画だった。
中央にウエディングドレス姿の女性が描かれている。燭台に乗った蝋燭は情熱の炎をたたえ、女性の左手薬指を飾る指輪に溶けた蝋が滴り落ちている。そしてテーブルの上には林檎の果実を配置し、一匹の蛇がそれに絡まりながら蝋燭を睨みつけているようにも見える。

「これは……」

琴美は少し息を飲み込む仕草をして、「どちらでもないと思います」と言い切った。
郡司は無言のまま、その理由を聞こうじゃないか、という眼を彼女に向ける。

「まず、蝋燭は男性のシンボルをあらわしていて、純潔を意味する結婚指輪を濡らしているのは、おそらく精液。貞操を汚されたいという女性の願望でしょう。反対に、林檎は女性器の象徴であって、蛇という強靭な鎖に貞操をまもられているのではないでしょうか。蛇と林檎の関係は、ここでいう新郎新婦のことでしょう」

郡司は琴美のほうを見ずに、二度頷いた。しかし彼の表情は否定的だった。

「残念だ」

「え?」

「そこまでの優れた感覚を持ちながら、きみは余計なものをここに持ち込んでしまっている」

琴美から笑顔が消えた。
二人は向き合い、ふたたび郡司が口をひらく。

「橘さん、きみ自身はどちらなんだね?貞淑か、それとも不貞なのか」

乾ききらない雨のしずくが、琴美の髪をつたって落ちる。そして思い出したように顎を引いて胸元を確かめた。

「きみはそんなふうに誰にでも色気を振りまく人間なのかね?」

耳の奥が詰まる感覚がして、琴美は眉間をしかめる。彼の指摘するものがそこにあったのだ。
どうにもならない胸の膨らみがキャミソールを押し上げ、雨で濡れた白いシャツは琴美の体型をあられもなく透かせている。
下着を着けていないのだから、うまい言い訳も見つからない。琴美が咄嗟に隠したときにはもう遅かった。

「これはその、そういう意味じゃなくて……」

「きみはさっき、お返しはかならずすると、確かそう言っていたね?」

その言葉は痛みを伴った。どこがどう痛いのかはわからないが、自分の身に危険が迫っているのだと琴美は悟った。
河原崎郡司は身寄りのない男だ。いまここで琴美が声を張り上げたとしても、誰に届くことがあろう。
出入り口に鍵がかけられていることは見なくてもわかる。最初から彼はそのつもりで私をここに招いたのだ。

「取材を引き受けた以上、その姿勢は貫こう。しかしだ。きみにもそれなりの覚悟が必要ではないのかね?」
郡司は琴美との距離を詰める。
彼の言う覚悟とは、私のなにかを犠牲にしろと促しているにちがいない。
琴美は自分の呼吸がはやくなっているのに気づき、ただ泣かないようにシャツとスカートにしがみついた。そして郡司に言う。

「私の覚悟を、ごらんになりたいのですか?」

つづき「ヴァギナビーンズ症候群「5」」へ


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