春眠の花[16]_ハッピーライフ-官能小説(happylives-novel)

牝獣(ひんじゅう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜 ——日野草城

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春眠の花[16]

15-06-14 10:39

この話はつづきです。はじめから読まれる方は「春眠の花[1]」へ

「それじゃあ静香さん、私そろそろ行かないといけないので」

「あとのことは気にしないで、終わったらまた連絡ちょうだい」

私は午前の仕事を途中で抜け出して、婦人科検診のために『いずみ記念病院』へ向かおうというところだった。
そこへ突然、何の前ぶれもなく彼がお店に現れたのだ。
もう二度と顔を合わせることもないだろうと思っていたのに、彼は私の機嫌をとるような笑みを浮かべて、「やあ」と手を上げた。
風間篤史、私のもと夫である。
数年ぶりに会う彼はどこか垢抜けた感じがして、以前よりもこけ落ちた頬やウエストも引き締まり、見違えた。
人目を避けて店の裏手にまわり、彼は立ち話をはじめた。

「まだこの店で働いていたんだ?」

「うん……。急にどうしたの、あなたがこんな所に来るなんて」

「仕事の邪魔しちゃってごめん。じつは奈保子に話しておきたいことがあって、まあ、今更どの面下げてって思うだろうけど」

「話ならあの日に終わったはずでしょう」

「違うんだ、落ち着いて話すから、落ち着いて聞いてくれ」

彼の真剣な眼差しに、ある種の決意が見えた。

「僕らが別れたいちばんの原因は、やっぱり僕の方にあったんだ」

「それはだからあなたの浮気癖のせいだって、私がそう言ったじゃない」

「それはわかっている。だけど僕が浮気にはしってしまったのは、僕自身の体に原因があったんだ。それを調べてくれるようにと、僕は病院で検査を受けたことがある」

「病院……?」

「うん……、精液検査だよ」

彼が言わんとしていることはすぐに理解できた。

「不妊症……なのね?」

私の問いかけに彼は黙って頷いた。

「あれはまだ奈保子と離婚する前の話だ──」と遠い昔話を懐かしむように彼は語り出した。
二人がまだ新婚だった頃、性に奥手だった私を気遣った彼は、どうにか私に目覚めて欲しくて、不器用なりにもあの手この手を尽くしていたのだった。
セーラー服も、裸にエプロンも、深夜のアダルトショップに連れ回したのも、すべて私の為だったらしい。
初めこそ私も遠慮したりしていたのに、いつの間にか楽しんでいた部分もなくはなかった。
彼の色に染められたというのか、新しい自分を発掘できた喜びを分かち合ったりもした。
そうして女の部分を満たされた私は、今度は子どもが欲しいと彼に言う。
二人の共同作業がはじまった。私の排卵日を予測し、それに合わせて彼は禁欲する。
男の禁欲がどれほど大変だったか、と彼は大げさに苦笑いした。そんなの知らない、と私は冷たく返す。

「だけどなかなか子どもができなくて、そんな時にインターネットで不妊症のことを調べてみたんだ」

「それで私に内緒で、ひとりで病院に行ったのね?」

「陰性の方に賭けてはいたんだが、先生にはっきり言われたよ。さすがにショック大きかったな……」

情けない思いが込み上げてきたのか、彼は斜め上の空を見上げた。
そんなことがあったとは知らずにいた私は、彼にどんな言葉をかければ良いのかわからない。
ずっと隠しておけば良かったのに、何故いまになって話す気になったのかもわからない。
もう一度私とやり直したいと思ったのだろうか。

「不妊症だと診断されて自棄(やけ)になったとはいえ、僕がそれを理由に浮気をしたことは事実だ。奈保子には迷惑をかけたし、いろんなことを清算してきたよ」

「なによ勝手に、それで私があなたのことを許すと──」

「思っていないよ。僕に教えて欲しいことがあるんだ」

彼は私の両肩を引き寄せて、真っ直ぐにこう言った。

「奈保子はどうして追われているんだ?」

「え……?」

身に覚えのない話だった。

「きみのことを捜しているという人物が、僕のところを訪ねてきたんだ。何故あんな連中が奈保子を探しているんだ?」

「あんな連中って?」

「ホームレスだよ」

まただ。どうやら私は、相当ホームレスのおじさま達に気に入られたようだ。
勤務先に現れ、自宅にも現れ、別れた彼の前にも現れている。
私に接触しようと思えばできるはずなのに、何だか私と距離を置いて私生活を観察しているようにも思える。
いったい誰が、何のために、何をしたいのか。

「いざとなったら警察に相談するから。心配してくれてありがとう」

「ほんとうに知らないんだな?」

「うん。まあ、会ったら会ったで、私にどんな用があるのか問い詰めてやるから」

「相変わらずだな」

「相変わらずよ」

不意に懐かしい笑みがこぼれそうになって、お腹がくすぐったくなった。

「元気そうで安心したよ」

「あなたもね」

じゃあ、と言って振り返った彼はどこか名残惜しそうで、積もる話の半分も言い切れていないのだと、その背中が語っていた。

車は順調に目的地へと向かっていた。ナビゲーションの音声に従い、見慣れない景色が目に入るようになってくると、辺境の地にでも旅に出てきたような錯覚が胸に迫ってくる。
開放的で風光明媚な県道がつづく。おなじ背丈の立ち木の間をいくつも通り過ぎ、木陰が開けた先に大きな空が見えた。
日光を遮るものは何もない。峠から見下ろすその町は、和製アニメのワンシーンをそのまま切り取ったような情緒と、西洋の世界遺産を思わせる風情を私に見せていた。
目的地までの距離をナビゲーションが告げた。

ああ、あれがそうね。

赤レンガの外壁は町の景観に溶け込みながらも、自分は特別な存在なのだと、その聖域の鎧で弱者を護っているようにも見える。
車を降りて緊急搬入口あたりから建物を見上げたとき、何度目かのデジャヴュに遭遇した。
やっぱりどこかで、この角度から四つ葉のクローバーのシンボルマークを私は見ている。
そして私はそれを赤十字と見間違えていたのだ。さっきからずっと子宮が疼いているのも、この病院と私が過去になんらかの関係を持っていたからだ。
正面玄関から自動ドアをくぐって足を踏み入れた途端、私を迎えてくれたのはたくさんの好奇の目だった。
何か珍しいものでも見るような目つきでもあり、うっとり見惚れて心ここに在らずといった様子でもある。
私は自分の身なりを確かめた。服が汚れていたり、下着が見えていることもなさそうだ。
それでも彼らは私の動作に合わせて、ほとんど目だけで追ってくる。
総合受付で手続きを済ませた後も、私の全身には彼らの視線がびっしりとつきまとっていた。
その日の私の服装はというと、上はしっかりしたスプリングコートに、下は少しゆったり目のショートパンツといったスタイルだ。
確かに病院にいれば浮いてしまう格好だが、自分的には年相応のコーディネートにしたつもりだった。

「こちらへどうぞ」

若い女性看護師はファイルを胸に抱え、柔らかい動作で私を案内してくれた。

「どうかあまり緊張なさらないように」

歩きながら彼女が言う。

「あの、診てくれる先生は女性ですか、男性ですか?」

「男の先生ですよ。けど安心してください。とってもすごい方で、海外とか色んな分野にも人脈をもっているエリートですから」

そうなんだ、と何となく納得した私。どんな職業でも上には上がいる。どれだけすごいかなんて、私にはまったく未知の世界だ。
でも彼女の言うとおりの医師だとしたら、私はなんて幸運なのだろうか。

「こちらでしばらくお待ちください」と産婦人科の待合いを彼女は手で示し、空いている椅子のひとつに私は腰掛けた。

つづき「春眠の花[17]」へ


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