私は沙貴。17歳。趣味は絵を描くことと、読書。あとは妄想。
私っていわゆる妄想族。複雑な家庭で育ったからなのか、一人になると独り言が止まらない。独り言で一人何役も呟いてる。一種の病気だと思う。
家に居づらい私にとって、学校の先生は唯一の癒しだった。将来は学校の先生になりたいなどと言っていた時期もあった。だからしっかり勉学に励んだ。そのおかげで、成績は決して悪くなかった。
でも年齢と共に現実が顔を覗かせる。
先生は、私のことを大切になんて思っていない。私の成績を、私の頭を見ている。私自身に目を止めてくれる人など、一人もいない。一人も。
でなければ、どうしてこの家庭環境を、このささくれた心を放っておくのか。
答えは一つ。気づいていないから。
それだけ。
中学受験をしたのは、痴漢に遭って男が嫌になったから。出来ることなら、あの無骨な体、低い声、デリカシーのない脳、いやらしいことしか考えられない性根に一生かかわりたくない。私の世界に、男という下等種族は必要ない。
周囲に自分がビアンである事実は公表しない。そもそも周囲にそこまで自分を知って欲しくない。
野村春美は高3になってからの担任。厳しくもなく、のろまでもない。程よい、とはまさにこのこと。私は心の中で彼女を賞賛していた。仕事もよくしていると思う。きっと昔から優秀なのだろう。私と正反対とは言わないけど、同じタイプではないことは間違いない。
彼女はこの学院で、姉妹校推薦、そしてかの有名女子大へ、という最もステータスな道を自ら選んだ女。そしてそれは、私にはできない行為。彼女にとって、いや、多くの女の子達にとって、ここが大学へスムーズに進むための踏み台だったとしても、私にとっては違う。私にとってここは、下等種族である男から逃れるための安全地帯に過ぎない。下等種族と席を並べなければいけない、所謂公立の学校よりも、あるいは地獄のような家よりも、ここの方がはるかに空気が澄んでいるように感じられたからここを選んだだけで、有名女子大に興味はない。外部受験をすることは中学の時から決めていた。
寮があるのにわざわざ一人暮らしを選んだ理由は他でもない。他人と時間や場所を共有するのが嫌いだからという私の性格に尽きる。中学から一人暮らしというのは珍しいだろう。実際親が保証人になれば、アパートくらい借りられる。あの悪環境の中、親が放任主義だったことだけは、本当に感謝している。おおよそ、私を寮などに入れれば、問題を起こして親である自分達が呼び出しをくらうことが目に見えたから了承したのだろうけど。
野村春美は、当然私が一人で暮らしていることを知っている。私は不便したことはないが、中は少々神経質な程心配する素振りを見せる人間もいる。彼女はそこまで心配する様子でも無かったが、私が少し病弱であることを大変に心配しているようだ。
私に持病がいくつかあることも、彼女は知っている。話した覚えはないが、発作を起こした時にたまたま居合わせたために、色々わかってしまったのだろう。
一週間前、また風邪をひいた。大したことではなかったのだが、受験を控えているため、なるべく早く治したかった。
風邪の時は、病院へ行き、薬を飲み、首と額を冷やして暖かい部屋でとにかくじっと寝ているのが一番。今回ももちろんそうした。そこへ現れたのが彼女。
呼んでない。一切。
それなのに、心配だったから、とか。心の中で思っていてくれれば十分だ。わざわざ行動にうつすから嘘くさくなる。なぜわからないのだろう。
何も食べていないことを知ると、彼女は驚き、何か作ると言い出した。何故人というのは、風邪で弱っている人間にお粥を食べさせようとするのだろう。噛まずに胃に流し込めてしまうお粥は、本来病人食には向いていないと、どこぞの学者が言っていた。その通りだと思う。よく噛めばいい話なのだが、こんな体力の奪われている時に顎を動かすのは苦痛だ。多少薬が胃にさわっても、何も食べない方が良い。しかしそれを説明するのも面倒くさい。適当に返事をしているうちに、味のしないお粥が出来上がっていた。
ダメ出しをするのも億劫で、そのままろくに噛まずに胃に流し込み、再び横になった。案の定胃がもたれたように痛くなってきた。顔を歪めると、彼女がまた心配して、やれどうした、こうしたと、毛布を引っ張ったり背中をさすったり忙しそうにし始めた。鬱陶しくて、もう大丈夫ですから、とやんわり帰るように促した。
うるさいものがなくなり、私はすっかり眠ってしまったようだ。ふと蒸し暑さで目が覚めると、部屋が薄暗かった。風邪の時の目覚めは喉が痛い。ついでに今は吐き気もする。間違いなくあのまずいお粥のせいだ。暑いのも、毛布が首までしっかりかかっているから。
軽く舌打ちをして、私は飲み物をとろうと体を起こそうとした。しかし、鉛のように重くて、ちっとも動かない。熱が上がっている気がした。だからこんなに暑いのか?関節もあちこち痛い。思わず唸ってしまう。だるい。衰弱してるのが自分でわかって、尚更気分が落ちる。
誰かに頼りたくなる。
こんな時、信頼できる家族さえいれば…
現実に起こりえないことを、つい考えて虚しくなってしまう。風で弱っているだけよ、と口の中で呟く。涙が出てくる。何で、私だけ…?
「どうしたの?」
驚いて声の方へ顔を向けると、そこには先生がいた。心配そうな顔でこちらをのぞき込んでいる。
「どうしたのって、何でいるの?帰ったんじゃ…?」
「いやぁ、寝ちゃったから、少し様子見てからと思って…」
なんじゃそりゃ。寝たのがわかったならさっさと帰ればいいのに。鍵のことを心配してくれているのだろうか。
「汗かいてる?」
涙だっつーの。と思ったけど、癪なので、はいと答えた。
ここ2、3日お風呂に入れていないから、体をふいてもらうのは気持ちよかった。痩せたねと言われると、ドキッとしてしまう。まるで前から私の体を知っているみたいな、そんな気がして。
思っていたより恥ずかしくなかったけど、段々申し訳なくなってきた。ご飯を作ってもらって、体までふいてもらって、私は何もしないで寝転がってるだけで、まるで私が彼女を顎で使ってるみたい。何だか気分が良くなかった。
「大丈夫?さっき、なんか元気ないみたいだったけど」
見抜かれてる…?少し怖い。熱ですべてが伝わってる想像をしてしまう。大丈夫ですと答えたい。甘えたって仕方ないことくらい、目に見えているのだから。心配はさせまいと、気丈に振る舞おうと思うのに、口から出てくるのは反対のことばかりだった。「辛い」「自分の体が憎い」弱音なんて吐きたくないのに。「まともな家族さえいれば」ついにこんなことまで口にしていた。家のことなど、言っても困らせるだけなのに。何故か止まらなかった。
気がつくと沈黙だった。気まずさすら感じない程に、清々しい静寂だ。もういっそ一人にして欲しかった。身勝手かもしれないが、こういう時は一人で泣くのが一番だ。………一人で?いや、独りで。今までだってそうだったから。
「そっか……何もできなくて、ごめんね…」
明らかに沈んだ声で、彼女は本当に申し訳無さそうに呟いた。そんな風に言われると、涙が堪えられない。別に、と、いつものようにさらっと答えたいのに、肩が震えて、全身が震えて、全然言えない。どうしてなんだろう。
「私、まだここにいてもいい…?」
彼女の言葉は、自信なさげではあるけど、私の心に心地よく響く。刺さってこない。水に石を投げた時のように、心の水が弧を描いて、心の奥をやさしく揺らす。
私は彼女の袖を掴んでいた。ずっと一緒にいて…と呟いた。多分聞こえてなかったと思うけど。
涙で声が押し付けられて、上手く出なかったから。
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