牝獣(ひんじゅう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜 ——日野草城
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15-06-14 08:26
食事は簡単に、肉や野菜と一緒に、彼女が買ってきたウインナーを炒めることにした。 何年も愛用しているコンボ・クッカーをコンロにのせて暖め、バターを溶かし肉と野菜を炒めていると、Mさんが風呂掃除が終えて部屋に入ってきた。 「わあ、いい匂いですね!」 膝下までまくりあげたチノパンから、まっすぐ伸びた白い脛が眩しい。そのまま横に来て覗き込む 「いいな、料理が上手で」
「はは、数こなしたら上達しますよ、誰でも」 そうは言ってみたものの悪い気はしない。 しかし、改めて思ったが、妙なシチュエーションだ。 婚約者とすら一緒に住んでいないのに、若い女性と同じ屋根の下で暮らし、厨房に並んでいる。しかもけっこう魅力的な相手と。 ウインナーに切れ目を入れる手元を見ているMさんの姿をそっと眺めた。
長い黒髪は今日は朝から後ろでまとめている。女性にしては背はやや高い方だが、とりたてて長身というほどでもない。 すらりとした立ち姿は、仕事中何度も見惚れたくらい姿勢がよかった。しかし… 手元を眺めるのにやや前屈みになっているためか、大きめのコットンシャツの襟元が緩み、薄いピンクのブラジャーに包まれた、抜けるように白い膨らみが覗けて見えた。 俺はどきっと弾んだ自分の鼓動が、彼女に聞こえるのではないかと錯覚した。 清楚な外観なだけに意外な色香が、白い胸元から匂いたつようだ。 「おいしそうですよね、本当に」 Mさんの声に慌てて視線を逸らしたから、多分気づかれてはいなかったと思うのだが。
「そうですか、まあ、あんまり期待しすぎないでくださいね」 努力の甲斐あってか、声を上擦らせることなく答えられた筈だとは思うのだが。 「ええ?これ、わたしも食べていいんですか?」 彼女は目をまるくして訊いてきた。
「勿論。お口に合えば、ですが」 「だって、ウインナーだけかと思ってたから…」 驚くほどのことではないと思うのだが、彼女は心底意外だったようだ。
「いいんですよ、一人分も二人分も手間は一緒ですし。それに、ふたりで食べたほうが美味しいですよ」 「そうですか…」 「あの、なんなら僕がいるうちは、一緒につくっちゃいましょうか? 俺の申し出に彼女は心底驚いたようだった。
「でも…それじゃ悪いですよ」 「だから手間は一緒ですから。勿論材料費は割り勘で」 彼女は少しの間俯いて考え込んでいたようだが、やがて顔をあげると 「それじゃお願いします。そのかわり、わたしがお部屋とかお風呂のお掃除、それと食器の洗い物をしますから」
「別にそこまで気にしなくてもいいんですけど。まあMさんがそう仰るなら掃除のほうはお願いします」 俺は料理はともかく、掃除は苦手だったのでMさんの申し出はむしろ有難かった。
「あ、でもお茶くらいは入れさせてくださいね」 とMさんは買ってきた緑茶を急須の中に入れはじめた。 図らずもこれからの生活の役割分担ができた。
「あ、でも食べてみて不味かったら考え直してもいいですよ」 俺が振り返りつつ冗談を言うと 「そんな!大丈夫ですよ、こんなに美味しそうないい匂いがしてるのに」 なんかいい感じだな、と思った。まるで新婚生活みたいでと思ったが、流石に口には出せないでいると。 「ふふっ、まるで新婚さんみたいですね」 思ってたことを言われて一瞬手を止めてMさんの方を見ると、Mさんは、あっ、と驚いたように 「すいません!変なこと言っちゃって…」 俯いたMさんの整った顔がみるみる赤く染まっていった。
彼女も、意識してないように振る舞ってはみたものの、やはり知らない男と一緒に暮らすということは、若い女性にとってまったく平静だというわけではなかったのだろう。Mさんのように真面目なひとなら尚更だ。
「あはは、予行演習みたいでいいですね。後学のためにも、気が付いたことがあったら駄目出ししてくださいよ」 だから俺はあえて婚約者がいることをアピールして、安心してもらおうと思った。
「ええっ、そんな。偉そうなことは言えませんよお」 軽い調子で言ったのがよかったのか、Mさんも顔を綻ばせた。 「さ、そんなことより飯喰いましょう!」 炒め物とパックに入った白米をテーブルに並べ、その隣に自分のIBookを置いて、俺は尋ねた。 「ところでDVDは何観ます?どんなのがお好みですか」
「そうですねえ…。わたし、洋画とかはよく知らないんですよ。だからこの機会にと思うんですけど」 じゃ、まずは残酷描写がなく、雰囲気と意外性のあるストーリー展開の「アザーズ」だろう。最近の作品だからとっつきやすいだろうし。 IBookを立ち上げ、DVDを入れて設定画面が現れるまでには少々時間がかかる。 「さ、どうぞ食べちゃってください。味はいまひとつ自信がありませんけど」 「はい、それじゃいただきます!」 彼女はきちんと両手を合わせてから、まず炒め物のほうから箸をつけた。
「美味しい!これ、ウチのおかあさんがつくるよりも美味しいですよ!」 心底驚いたように彼女は言った。
「そりゃよかった。“こんなもんが喰えるか!”って卓袱台ひっくり返されたらどうしようかと思ってたんですよ」 一応つくってる間に、いつもより多く味見してたから大丈夫だろうと踏んでいたのだが、予想以上の賛辞にこちらも嬉しくなり、つい軽口が出た。
「いいええ!ホント美味しいです。どうもありがとうございます。Nさんの奥さんになるひと、幸せですよね」 あまり正面切って瞳をきらきらさせながら褒められると、なにかこそばゆい感じもする。
「さあ、どんどん食べてください。あ、そうだ。パソコン立ち上がりましたけど、音声と字幕どうしますか」
「え~と、どちらがお奨めですか?」 「僕、日本語吹き替えと日本語字幕、同時に出すのが好きなんです。ごはん食べながらでもわかりやすいし、翻訳のニュアンスが微妙に違ってるのが面白いですよ」 こういう見方をしてることを人に言うと珍しがられるのだが、Mさんは「じゃそれでお任せします」と素直に言ってくれた。 ほどなく「アザーズ」が始まった。
俺自身は、劇場公開とDVDリリースのときにそれぞれ観ているのでこれで三度目だったが、ある意味今回が一番楽しかったことを告白しなければならならないだろう。 正直に言うと、映画を食い入るようにみつめるMさんの横顔に、度々みとれていたのだ。
画面から伝わる様にゴシック調の空気にひたり、登場人物の謎めいた行動に一喜一憂する面差しは、まるで少女のようなあどけなさ。 仕事中にみせた落ち着いた様子と違って、新たな魅力を知る事ができた。 いいな、このひと。素直に思った。整った目鼻立ちもだが、なにより内面からにじみ出る性格の良さが表情に顕われ、彼女をより美人に見せている。
やがて物語は、唐突に真の姿を表して終わりを告げる。Mさんは静かに流れるエンドロールを、両手を口にあて瞳を大きく見開いてみつめている。 よほどラストが意外だったのだろう。心底驚いた様子だったが、我に返ったようにこちらに顔を向けた。
「…すごい!Nさん、面白かった!最後、ほんとにもうびっくりしたっていうか、すごいよかったです!」 それまで静かに観ていただけに、彼女のはしゃぎようが際立った。
「気に入ったみたいですね」 実はあのラストシーンは、ホラー的にはさほど珍しい手法でないため、俺自身は初めて観たときに気が付いてしまったのだが、それをいうのも野暮なので黙っていた。
「はい、とっても!これは人に奨めたくなる映画ですよね~。他の映画も楽しみにしてます!」 「そんなに喜んでもらえたらこちらも奨めた甲斐がありますね。今日借りたやつ全部見終わったらまたいいのを見繕って借りてきましょう」
「いいんですか?なんか悪いですよ。Nさんだって観たいのあるんでしょう?」 彼女はそこでちょっと心配そうに言う。
「構いませんよ。こうやって人と一緒に映画観るのって新鮮ですから。特にホラーは」 「え?彼女さんとは一緒に観ないんですか?」 不思議そうに首を傾げる。
「ええ、すごい恐がりなもんで。だからいいですよ。それにホラー以外でもお奨めあります。何回観ても面白いやつをピックアップしますから、Mさんがよければご一緒にどうぞ」 自分でも意外な成り行きだった。 婚約者がホラーが苦手なのは本当だが、本来人と一緒に映画を観ることには、実は抵抗があったのだ。 Mさんだとそれが気にならない。それがいいことなのか悪い事なのか、そのときには判断がつかなかった。 これより毎晩、夕食の度に映画をみるのは習慣になった。 そう、最後の夜を除いて。
俺の申し出に、Mさんは素直に「じゃあ、遠慮なく」と微笑んだ。 よっぽ映画が気に入ったのだろう、ひとしきり感想を述べていたのだが、やがて 「それじゃ、わたしは洗い物しますから、よかったらNさんはお風呂に入られてください」 そう言って席を立った。
「いいんですか?僕が先で」 腕まくりをして食器を次々に洗い桶に入れ、洗いはじめた姿を、もうすこし見ていたくはあった。 仕事でもMさんの動作には、無駄が無くそれでいて丁寧だったから、ついつい目がいってしまっていた。 機材の扱いは自分の方に一日の長があるはずだが、彼女には俺が教える余地などまったく無かった。 むしろ、この会社に入ってからこれほど手際がよい人間にお目にかかったことはなく、一般的に女性が機械を苦手としていることを思えば、彼女の知性というか理解力の高さが伺えた。 そういえば、今見た映画に関しても、素直にストーリーを受け入れつつ、鋭い意見を述べていた。
「あの、明日も早いし、わたし髪洗うのに時間かかっちゃいますからどうぞお先に」 そう言われてまだ遠慮しているのも変なので、俺は風呂に入ることにした。 自分が入ったあと、一旦お湯を落としたほうがいかと思ったのでそう訊くと、そのままでいいです、との答えが返ってきた。 「ほんとに、あまり気を使わないでくださいね。10日も一緒にいるんですから」 それもそうか、と俺は思い直した。こちらに婚約者がいることをアピールした以上、過剰に気を使うと却って意識させてしまうかもしれない。 だがそれは、俺自身がMさんを女性として意識してしまうことの顕われに他ならなかったのだが。 ただその時点で、俺の方に彼女とどうにかなりたいという明確な意識は無かったように思う。 Mさんが好みの女性であるとは思ってたが、結婚を間近に控えた身でもあるし、婚約者を裏切るようなことはしたくなかったのだ。
ともあれ、その日から俺たちの生活パターンは決まった。 朝目覚めて簡単な朝食をとり、一緒に会社へ出かける。 途中、コンビニで昼食を買い込み、会社に着いてからは、取引先との折衝や現地採用の人間の指導、本社との打ち合わせに忙殺されたが、Mさんという有能で人当たりのよいパートナーのおかげで、大した問題も無くことは進んだ。 仕事が終わったあとは、必要であれば食材を買い足し、本屋に寄ったが、外食はいっさいしなかった。 そして帰ってからは映画を見ながら食事をし、それが終わると観たばかりの映画やたわいもない話題に会話を弾ませる。 最初に借りたDVDを全部見終わると、レンタル店で新しいソフトを借りた。 ホラーばかりなのもどうかと思ったので普通の映画も借りたのだが、どれも皆喜んで観てくれた。 男女を問わず、これほどまでに嗜好が近い人間は珍しかった。
「Nさんの好みの女性って、こんなひとなんじゃないですか?」 ある日、観終わった映画「耳に残るは君の歌声」のヒロイン、クリスティーナ・リッチについてこう訊かれた。 毎日観る映画が、俺の観終わったものばかりでは、と彼女が言うので未見のものを借りてきた中の一本なのだが、前日に同じジョニー・デップとクリスティーナ・リッチ主演の「スリーピー・ホロウ」を観ていたせいだろうか。 確かに、今もっとも好きな女優のひとりだった。 「ええ、わかります?」 「可愛いひとですよねえ。なにか不思議な雰囲気があるし」 たしかにこの女優の纏うミステリアスな空気には独特のものがある。 「う~ん、なんかね、目がいいですよね。日本人好みの顔立ちだし」 「彼女さんもこんな可愛いひとなんですか?」 まっすぐにこちらを観たMさんの真顔に、一瞬言葉が出なかった。
「まさか!こんな感じの人、そうそういませんよ。個性派女優だし」 「似てないんですか?」 「しいて共通点をあげるとしたら、どっちも童顔ってことくらいで…あとは全然違いますね。キャラなんかもう正反対だし」 思えば婚約者のことについて、Mさんが訊いてきたのはこれがはじめてだった。 これまで意識して話題にしようとしてなかったのかもしれないし、俺もMさんに彼氏がいるかどうかはあえて尋ねはしなかった。 「そうですよね、こんなひと簡単にいませんよね。女のわたしから見てもすごく可愛くて、胸なんかもおっきくてうらやましいな」 ちら、と自分の胸元に視線をやるMさんにドキリとした。
「胸は関係ないですよ、ウチの彼女だってグラマーってわけじゃないし。それにMさん、スタイルいいじゃないですか」 初対面から思っていたことではあったが、遠慮して言わなかったことが口に出たのはすっかりうちとけたからだろうか。
「そんな、わたしなんか大したことありませんよお」 Mさんは頬をかすかに赤らめて照れ笑いをみせた。 「胸だってちっちゃいし、脱いだらけっこう余分なお肉がついてたりするんですよお…」 小さな卓袱台に隣り合って座ってそういうことを言われると、女を意識せざるをえない。 「…いや、いまの台詞は大概の女性を敵に回しますよ。Mさんがスタイル良くなかったら、世の女性は殆ど駄目ですって」 俺はなんとか無難に済ませることのできる台詞をみつけた。が、そこで終わっておけばいいものを次の一言は余計だった。 「男の目から見て、Mさんはホント、スタイルいいですって!」 「え…」 瞳をまるく見開いて、こちらに向いた彼女の顔が微かに上気しているように見えた。
しまった、と思った。 いつしか男の目でMさんを見ていたことが、彼女にわかってしまった。 「…男の人にそんなこと言われたの、初めてです」 そうなのだろう。普段から地味な服装だし、控えめで潔癖な性格には、そんな軽口が簡単に言えないような雰囲気がある。
「彼氏とか、いないの?」 僅かな躊躇いののちに、俺は前から訊けなかった質問を口にした。 「…います」 俯いて答えたMさんの返答に、胸がずきりと、殆ど物理的な重い痛みを感じた。 ああ、やっぱり。 それは、こんな素敵な女性を、まわりの男がほっとく筈も無い、という当たり前の事実と、このひとをいつのまにか好きになってしまった自分の気持ちを思い知らされる痛みだった。見た事もない男に嫉妬するほどの。 「でも、彼にもそんなふうに褒められたこと、なかったです」 「なかなか付き合ってる相手を正面から褒められるもんじゃないですから」 俺は世間一般の男のあたりさわりのない意見として言った。
するとMさんはま顔をあげて、まっすぐ訊いてきた。 「Nさんは、どうですか?彼女さんを褒めたりしないんですか?」 「う~ん、なかなかね、男はそういうこと言えないもんです」 嘘だった。いや、他の男はそうかもしれないし、自分も今の婚約者と付き合うまでは、そういう褒め言葉を言う事に抵抗があったのだが。最近はそうでもない。 「彼女さん、どんなひとなんでしょう。美人ですか?可愛いタイプ?」 「…俺としては、可愛いと思ってます」 なにを言ってるんだ、俺は。 「全然褒めたことはないです?」 「そりゃ…全然ってわけじゃ」 「そう、ですか」 「あの、今回の出張で、わたしと…知らない女と同じところに住んでるって、彼女さんは知ってるんですか?」 じっとこちらを見据える瞳に、嘘はつけない。 「はい。向こうを出る前にちゃんと言ってます」 「嫌がったりされませんでしたか?」
「そりゃ、内心は面白くないでしょうね、きっと。でも文句は言われませんでした」 ここで誤魔化したほうがよかったのかもしれない。が、俺はそうしてはならないような気がしていた。Mさんにも、そして自分の彼女にも。 「まあ、俺が男だから、ってこともあると思いますけど。Mさんのほうはどうだったんですか?その、俺と一緒にいること、彼氏には」 「言ってません」Mさんは視線を逸らせた。
「出張そのものを反対されましたから、言えるはずがありません。普段は「好きだ」とか、ろくに言ってくれないくせに」 再びフローリングに視線を落とし、Mさんは呟いた。 「いいな、Nさんの彼女」 思っててもなかなか口にできないだけですよ、と言ってあげるのが普通なんだろうが、いかにも空々しかったし、言いたくはなかった。俺は言いたくなかった。 部屋の空気が重くなった。 「女の人って、そういうこと言ってほしいものなんですか?」 Mさんは、と訊くと更に気まずくなるのはわかっていたから、そう訊いてみた。 「あ、いや。言ってほしいってわけでもないんです。わたし、そんな可愛いってわけじゃないのは知ってますし」
そんなことはない、と言いたかった。ただ控えめだし、地味にしてるから目立ちにくいだけ。 なにより内面の良さが表情にあらわれ、けっして魅力がないわけではない。 「でも、何年もつきあってると、最近じゃ「好き」って言ってもらえないのもちょっと…」 こういう場合、なんと言えばいいのか。
「男はそういうこと、言わないもんです」か?それとも「俺がMさんの相手だったら、毎日でも言ってあげるのに」とでもいうのか? 「ああ、ごめんなさい。変なこと言っちゃってますね、わたし」 気まずい沈黙を、Mさん自身の言葉が終わらせた。 「ひさしぶりに、ラブストーリーみたいなの観ちゃったからかなあ」 「ラブストーリーというより、戦時下のヒューマン・ドラマって感じじゃないのかな、これは」 不意に弛緩した空気に、やっと俺は言葉を発すると、Mさんは「ふふっ」と笑って言った。
「Nさんって言葉にこだわりますよね」 「そう、ですかね?」 思い当たることがないわけではない。 「そうですよお。ただ映画みたあとにお話するじゃないですか。そのときにすごく言葉を選んで話してらっしゃるな、と思ってました」
「そうみえます?」 すると彼女はあわてて、顔のまえで白いてのひらをひらひらさせて 「や、悪い意味じゃないんです。好きな映画のことをお話されてるときは、言葉を大切になさってるんだな、って思ってたんです」 「おもにホラー映画ですけどね。オタクみたいですいませんね」 と俺が混ぜ返すと
「もう、そういう意味じゃありませんてば!」 久々に屈託のないMさんの笑顔を見たような気がした。 「あはは、わかってますよ。ありがとうございます」 「さあ、明日も早いし後片付けしちゃいましょうか」 Mさんが腰をあげたので俺も一緒に立ち上がった。
「じゃ、今日もお先にお風呂入っときます」 「どうぞ、あの、Nさん」 彼女は食器をキッチンの流しに入れると、あらためて言った
「ごめんなさい、きょうはその、変なこと訊いて」 神妙に頭を下げるMさんに、俺は努めて軽く言った。 「ほんとですよ、次に同じようなこと訊いたら逆セクハラで訴えますよ」 まあ、と、目を見開いてMさんはころころと笑った。
「ふふ、それ、おもしろいですね」 これでいいんだ。と俺は思った。 いつものMさんだ。ひとしきり笑ったあとMさんは、こう切り出した。 「あさって地元に帰られるんですよね、Nさん」 「ええ、お名残惜しいですけど」 本心だった。が、そのほうがいいのかもしれない。これ以上いっしょにいると… 「じゃあ明日、仕事が終わったらわたしに付き合ってもらえませんか?この近くでお祭りがあるみたいなんです」
「思ったより車混んでなくてラッキーでしたね」 その日は仕事が終わってから買い物などせずに、俺たちはまっすぐウイークリーマンションへ帰った。二人で過ごす最後の夜だし、すこしでもゆっくり楽しんでいたかったからだ。 祭りはもっと早い時間からはじまっているし、場所もマンションのすぐ裏手の神社を中心とした一角らしかったので、帰り道が混んでいないかどうか心配だったが思ったほどでもなく、6時半には帰りつくことができた。
「ええ、じゃ早速行きますか?」 職場へ持って行ったスポーツバッグが車に積んであったが、たいしたものは入っていないので、俺はそのまま祭りに行っても良かったのだが、Mさんは一応着替えてからいくという。 「すぐ済みますから待っててくださいね」 と言われたが、俺もやっぱり荷物を置いてくるからと言って、部屋へ向かった。 そんなのは口実で、ただMさんと離れていたくなかった。 Mさんに続いて階段を上がる。足の長い彼女の後ろ姿は抜群に格好いい。 目の前を綿パンに包まれた丸っこいヒップがクリクリと動き、俺は昨夜の光景を脳裏に甦らせていた。
今朝は自分で目覚めることができなかった。昨夜、彼女に対する好意をはっきり自覚していた俺の寝付きはあまり良いとはいえなかった。 無論、婚約者に対する愛情が冷めてしまったわけではない。Mさんより更に大人しい婚約者は、女子高からエスカレーターで女子大に入り、そのまま女ばかりの職場に就職したためか、生来の奥手な性格もあって、はじめて付き合った男性が俺だっ。
背は150センチにも満たない小柄で、幼い顔だちもあって可憐という言葉がぴったりくる女だった。 女出張期間中は女性と一緒の部屋で過ごすことになることに驚きはしたが、反対はしたかった。 露骨に嫉妬という感情を表に出すのを嫌ったせいもあるのだろうが、やはり世間しらずなあいつは俺を信頼してくれていたのだろう。 それを裏切ることは人として許されないという想いと、Mさんに惹かれて行く自覚が、それぞれ頭の中で自己主張していた。 婚約者よりも先に前にMさんに出会っていたら。しかし、あいつ抜きの人生も考えられない。身勝手なものだ、と俺は思った。 どの女と付き合っているときにも、俺は浮気などはしたことがなかった。特別に一途でも潔癖だったわけではない。
あまり長続きしたことがなかったせいか、浮気などする余地がなかっただけかもしれない。 その俺が、はじめて4年という長い期間を重ねた上で結婚を決意したのだ。はじめて自分自身よりも大切と思える女に出会ったといっても過言ではなかった。 なのにMさんの存在が俺の中で少なからぬ部分を占めはじめている。世の、浮気に走る男は皆こんなものなんだろうか。そうも思ったが、何故だか違う気もした。
殊更に自分を正当化するつもりもない。ただ、なにひとつはっきりした解答など得られないなかで、自分を嫌悪する気にはなれないことだけははっきりしていた。 埒もないことを考えながら、それでも浅い眠りを繰り返していたのだろう。ふと気づくと、枕元の時計は三時半を廻っていた。 喉が、なにかがひっかかったような乾きを憶え、口中に苦いものが貼り付いていた。
無性にビールを飲みたくなった。このままではゆっくり眠れない。壁ひとつ隔てた隣の部屋ではMさんが眠っている。そう考えると妙に息苦しくなる。 せめて乾きと苦みだけでも洗い流したくなる欲求にかられ、俺は台所に向かった。 冷蔵庫からビールを取り出そうとして、俺は妙な違和感を憶えた。
確かに2本残っていた筈なのに、目の前にはサントリーのモルツが一本しかない。 とりあえず最後の一本を手にとる、と、不意に廊下へ向かうドアのむこう、バスルームの方向から水音が聴こえてきた。 Mさん、こんな時間に?ふと足元のクズカゴを見ると、飲んだ憶えの無いモルツの缶が転がっている。
彼女も眠れないのだ、そのときの俺にはどうしてかわからなかったが。いや、そんな疑問が俺の中にあったのはほんの一瞬だったような気がする。 なぜなら、バスルームから聞こえて来る音が、ひどく艶かしく聴こえてきて、俺は缶を流しの横に置くと、足音を忍ばせゆっくりと廊下へ向かうドアへ向かっていたからだ。
ノブに手をかけそっと廻すと、カチャっという音とともにドアはあっけなく開き、隙間からダイニングの光を廊下に投げかけた。 自分がなにをやっているのか、にわかには信じられない想いだったが、それでも妙に行動は慎重に動いていた。 薄いドアをそっと押すと暗い廊下がゆっくりと視界に広がっていく。
その途中にはなんの仕切りもなしに脱衣所があり… 模様の入ったすりガラスのバスルームの戸にぼんやりと、しかし確かに生まれたままの姿のMさんの姿が映っていた。 深夜ということで音を小さくするために、姿勢をひくくしてシャワーをあびていたのだろう。 かすかな水音が止むと、背中まであるMさんの髪の黒がすりガラスごしに揺れ、薄い肌色の裸身が伸び上がる。 長い足と思いのほか丸みを帯びた腰のラインが動く。それははっきりとは見えないだけに、かえってエロティックで、俺は下腹部に重い衝撃を感じた。
何をやってるんだ俺は。自分の行動を冷静に、不思議なもののように眺めているもうひとりの俺が、はやく自分の部屋へ戻れといっていた。 こんなところ、バレたらどうする?という想いがあったのは確かだが、Mさんの信頼を裏切っていることをはっきり自覚していたのだ。 だがガラスにゆらめく美しい眺めは、目を離すにはあまりに魅惑的だったのだ。
そうやってMさんの入浴姿を盗み見ていたのは、時間にして10数秒に満たなかったと思う。 タオルをとり、身体を拭く気配に俺はそっと廊下のドアを閉めた。 忍び足で後退する。バスルームのガラス戸が開く音が聴こえたのは、自分の部屋に戻ってドアを閉めた直後だった。 音を立てないように寝具の中へ潜り込む。今、Mさんが脱衣所で下着や寝間着を身につける様が頭に浮かんでしまう。 やがて廊下のドアが開き、Mさんがダイニング兼リビングに戻ってきたのがわかった。 スリッパの音がすとすとと部屋を歩き、キッチンの前で止まる。 蛇口を捻る音に続いてガラスのコップをとるガチャっという音した。 しまった!
そこで俺は缶ビールを流しの横に置いたままだったことに気づいた。気づかれただろうか? 一段と跳ね上がった鼓動に、掛け布団が浮き上がったような錯覚を憶えた。 水を飲み終わったのだろう。もういちど蛇口を捻り、コップを洗う音がした。 バレたかも知れない。頭のいいMさんならずとも不審に思うに違いない。 後悔の念が激しく渦巻く。 こんなときだが、ひりつくようなのどの渇きと口中に粘る苦みが、我慢できないくらいに大きくなった。
やがて自室へ向かうMさんの足音が聞こえ… いや、俺の部屋の前でそれは止まった。 数秒の間があり、ゆっくりと入り口の引き戸を開く音が耳に入ってきた。 つっかえっつっかえして、何事にもソツのない普段のMさんらしからぬ、不器用な開け方のような気がした。
「お待たせしました」 上だけ作業着からストライプの半袖のオーバーシャツに着替えた俺は、Mさんの声に我にかえった。 控えめなレースの縁取りのある、襟ぐりのやや大きい白いシンプルなワンピース。 女性のファッションには疎いというか、鈍感な俺でも、それが清潔な彼女のイメージによく似合っていることはわかる。
「…スカート姿ってはじめて見ましたよ」 あれだけ一緒にいたのに、私服に着替えた彼女の姿を見るのは、このときがはじめてだった。 「いつかお休みがあると思って一応もってきてたんですけど…おかしくないですか?」 顔をやや赤らめて、Mさんは俯いた。
「とんでもない!すごく似合ってますよ」 月並みな台詞なだけに、心底見蕩れてしまったのがみえみえなような気がして、俺は照れ隠しのようにわざと軽く言った。 「これでますます惚れちゃったらどうすんです」 「や、また、ご冗談を」 笑いながら俺の肩を軽く突いたMさんの目が、どこか真剣に見えたのは気のせいだったろうか? 「さ、はやく行きましょう。せっかくのお祭りなんですから」
<続く>
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