牝獣(ひんじゅう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜 ——日野草城
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15-07-14 08:50
その頃引越した街には、なかなか広くて設備も新しい図書館があって、そこはタダで静かで空調も快適だったから、当時なんちゃってミステリファンの大学生だった俺は、金が無い時の暇潰しに良く使っていた。 通い始めて三ヶ月くらいの頃だったか、借りた本に栞が挟みっぱなしになってるのを見つけた。 レース編みの手作りっぽいかわいい栞は、当時編み物の知識も興味も全く無かった俺ですら解るくらい手が込んでいて、そのまま放置するにはもったいないクオリティだった。 これはきっと、俺以前に本を借りた誰かが挟んだまま返却してしまった物だろうと考えた俺は、できればその誰かに返してあげたいんですがと、司書さんにお願いした。 その時が彼女との初対面。 愛想よく「お預かりします」と答えた笑顔がいかにも仕事できます的な余裕たっぷりで頼もしかったから、この人に預ければきっと大丈夫って、ちゃんと栞は持ち主の手に戻るって、俺は根拠も無くそう思った。 後で聞いてみれば、彼女がその図書館に勤め始めたのは、俺が引越してくるずっと前だったそうで、だから、当然既に何度か顔も合わせてた筈なのに、それ以前は存在が全く印象に残ってなかった。 黙ってるとクールな感じだが、話すと実は物腰が柔らかく表情豊かで、見た目は清潔感のあるメガネの文系タイプっていう、それこそ思い切り俺の趣味ど真ん中な人だったんだけどね。
さて、忘れ物を預けたこと自体すっかり忘れた一ヵ月後くらい、久々に行った図書館で彼女に呼び止められた。 「あの栞、ちゃんとお返ししておきました」 「あー、ありがとうございます」 「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」 見た目クールだけど実は表情豊かな人だって事には、この時気づいた。 ニコニコ笑ったその時の笑顔は、愛想笑いでも一ヶ月前に話した時の、いかにも仕事できるっぽい頼もしい笑顔でもなくて、何というか子供が誕生日プレゼントの包みを開く時の嬉しそうな顔というか、貧弱な俺の語彙ではちっとも表現できない、とにかくすごく可愛い笑顔だった。 取り敢えずきっかけなんてそんなもんで充分だった。 ゲンキンなもので、今までその存在に気づいてすらいなかったくせに、今度は彼女が気になって気になってしょうがなくなった。 たまに暇つぶしじゃなくて、調べものとかマジメな用事があって図書館に行った帰り道だとかに、ちゃんと目的は果たせているのになんとなく物足りなさを感じていたり、あるいはガッカリしてる自分に気づいて、そういえば今日はあの司書さんいなかったなーって思ったりしてね。 それからまた、だいたい一ヶ月の間、仲良くなりたい一心で、暇つぶしが目的だった筈の図書館にわざわざ時間を作っては通い詰めて、それで何ができる様になったかといえば、仕事の邪魔にならない程度の本当にささやかな世間話だけ。 それも貸し出しや返却のついでにカウンターでという、彼女にしてみればそもそも誰が相手でもある程度会話せざるを得ない状況の時のみ。 まだちゃんと名前すら聞けてない。 別にそれまで女の子と付き合った経験が無かったって訳じゃない。 でも、彼女相手だと何故かとんでもなく緊張してしまい、会話が続かなかった。 自己嫌悪で凹んだね、激しく。 それでも諦めなかったけどさ。 で、諦めなかった甲斐があって、そんな状態からでも更に二ヶ月くらい経つ頃には、もう少し彼女のことを知ることができていた。 本好きが高じて司書になるくらいの読書家だけど、特にミステリとSFが好きで、アガサ・クリスティとP.D.ジェイムズのファンだということ。 彼女が本好きになるきっかけは、子供の頃、両親の仕事の関係で海外に住んでいた時に読んだ『いさましいちびのトースター』という本で、これはお気に入りだったのに、日本に帰ってくる時に引越しのドサクサに紛れて無くしてしまっていて、それを今でも残念に思っていること。 あとついでに、これが一番重要なポイント。 どうやら今付き合っている相手はいないらしいということ。 もしかしたら俺にもチャンスがあるのかも知れないって、そう思った。 時間をかけてほんの少しずつ。 自分でもちょっと笑えるくらい少しずつ距離を縮めて、世間話と雑談の他に、小説家の名言や作品の台詞を引用して元ネタを当てるささやかなゲームなんかができる様になる頃には、初めて話してからもう半年以上経っていた。 貸出しを頼めば同じ作家のお勧めについて、返却に行けばちょっとした感想や印象的な表現について。 それから大学で使う資料の相談をすれば、 「何かお役に立てることがありましょうか?フィールディングさん」 「えーっと、それは『女には向かない職業』ですね」 お勧めや感想はともかく、元ネタ当てゲームなんか出し合ったところで、引き出しの多い彼女と違って俺の正答率なんか二割位で散々だったけど、そういうちょっとしたやり取りが楽しくて、嬉しかった。 さて、それからまたしばらく経って十二月。 仕事の合間のちょっとしたお喋り程度だったら彼女も楽しそうに見えた。 だから、冷静に、客観的に考えて、取り敢えず嫌われてるって事は無いのでは?とは思った。 鬱陶しがられてもいない筈。 でもその頃に至っても、まだ仕事中以外彼女と会った事もなかったから、図書館の外に誘える関係になるために、その日はアイテムを用意した。 『いさましいちびのトースター』 オリジナルの原書で初版。 きっと彼女が子供の頃読んだのはこれだろう。 ちょっと良い値段したけれど、これをきっかけにもっと仲良くなれれば、こんなのは安い買い物だ。 そう思った。 「たまたま本屋で見つけて、つい買っちゃったんですよ」 とでも言っておけば、クリスマスシーズンだしそんなに引かれるほど重いプレゼントではない筈だって逃げ道も作った。 我ながらチキンでヘタレだなと今でも思うけど、何故か彼女が相手だと一歩踏み出すのが怖く怖くて、どうしようも無かった。 その日、雪がちらほら降り始めたりしてる寒い平日の午後は、普段以上に利用者も少なくて、俺にとっては都合が良かった。 (たまたま見つけたから、つい買っちゃったんです) (別に深い意味は無いんです) (確か愛読書だって仰ってたなと思って) サラッと、あくまでも軽い感じでプレゼントしようと決めて、頭の中で何度も言葉を反芻してたら、どうやって話しかけるか考えるのを忘れた。 彼女はフロアの奥で書架の整理をしてたから、仕事の手を止めてもらわなくちゃいけなかったのに、挨拶くらいしか思いつかなかった。 「こんにちは、今日は寒いですね」 「こんにちは、そろそろ(俺が)来る頃かなと思ってました」 仕事の邪魔をするのが申し訳なくて恐る恐る声をかけたのに、いつもと変わらず笑ってくれたのが嬉しかった。 良く考えたらカウンターの外で話しかけたこと自体、その日が初めてだったんだよね、確か。 「実は、階段上る足音だけで、あの人が来たって解っちゃうんですよ」 「えーっと、それはコレット。『ジジ』しか知りませんけど」 「はい、正解です」 困らせる様なお願いなんてしたことはなかったから、そもそも彼女のネガティブな表情なんか知らないけど、そんなに迷惑そうな感じでも無かったし、元ネタ当てゲームを振る程度の余裕もあるってことで、これはチャンスなんだと思った。 「本屋でたまたま見つけて、つい買っちゃったんですよ」 「確か愛読書だって仰ってたなと思って」 「?」 ”たまたま見つけてつい買ちゃった”ことを強調するために、敢えて書店の普通の紙袋で包装してもらったプレゼントの中身を覗き込んで、みるみるうちに彼女の表情が変わった。 「そう、これですよー、この表紙」「大好きだったんですよねー」 「うん”どこのトースターだって、僕より上手くトーストを作れない”」 「これ、本当にいただいちゃって良いんですか?」 ノスタルジーを刺激されたのか、辛うじて声こそ抑えてたけど、いつもよりはるかに饒舌な口調になって一人で喋る彼女の様子に、俺の方まで嬉しくなった。 苦労して探した甲斐があったって、そう思った。 「どうぞ、貰っちゃって下さい」 「ありがとうございます」 かなり良い感じの雰囲気だった筈なんで、ここでもう一押しできれば、話は早かったんだが、彼女に対してはそれができないのが当時の俺。 照れ隠しと空気の入れ替えで彼女に話題を切り替えられ、良い雰囲気はそこで終わってしまった。 「あ、そうだ。連城三紀彦、いかがでした?」 「えっと?」 「『戻り川心中』、今日までですよね」 完全に忘れてた。 本当は借りた本の返却に来た事にするつもりだった。 プレゼントの本は、あくまでもそのついでという事にする筈だった。 「それ(プレゼント)に気を取られて忘れました。明日持って来ます」 「はい、お待ちしてます」 プレゼントが効いたのか、彼女はいつもにも増して笑顔だったけど、俺の方は久しぶりの自己嫌悪だった。 家に帰ってうーうー唸るレベル。 彼女の前では見かけより意外としっかりしてる年下でいたかったから、それまで返却期限をきちんと守って常に前日迄に返却していたのに、それが台無しになってしまったと思った。 なにより、わざわざプレゼントを贈るためだけに図書館に行ったのがばれてしまっては、意味深になってしまう。 結局、その日は、プレゼントを俺が思ってたよりずっと喜んで貰えたのが嬉しかったことと自己嫌悪の二つで頭の中が一杯になってしまい、他の事まで気が回らなかった。 元ネタ当てゲームでのシドニー=ガブリエル・コレットの言葉は、あれが全文じゃないってこと。 その頃の彼女の勤務シフトだと、翌日は休日の筈だってこと。 俺がどんな本を借りていて、返却期限がいつなのか覚えてるなんて、普通に考えて、ただ仕事熱心ってだけの話じゃないだろってこと。 そういう色々に気づいてみる余裕なんか、これっぽっちも無かった。 夜中まで降り続いて、朝になっても道路にしっかり残った前日の雪は、今考えればそんなに大した量じゃなかった筈だけど、俺にとってはそれが人生で三度目くらいに見た本物の雪。 普段だったら家から一歩も出ない。 それでも返しに来ると言ってしまった以上、出かけない訳にも行かない。 仕方なく家を出て、何度か転びながら苦労して歩いてお昼近く、ようやく辿り着いた図書館のカウンターに、彼女はいなかった。 ”お待ちしてます”とは言われたけれど、もちろん言葉通り俺を待っててくれるなんて思ってた訳じゃない。 司書には色んな仕事があって、彼女もいつも忙しそうだったから、姿が見えなくても仕方ないと思った。 当時の俺的にはカウンターにいてくれないと話をする口実が無かったし、雪道歩くもの結構大変だったし、更にその日は前日カッコ悪かったのを何とかリカバリしたいと思ってたから、ぜひ会って話がしたかったけど、忙しいなら仕方ない。 すごく残念だけど、でも仕方ない。 そう思った。 だから、返却の手続きをしてくれた同僚の司書さんに、彼女は休みだってことと、なのに朝からずっと閲覧コーナーにいることを、少し呆れ気味の苦笑混じりに教えてもらったら、思わず、話かける口実を作るのも忘れて教えられたパーティションに行ってしまった。 こんな寒い日になんでわざわざ来てるんですかって、聞きたかった。 みんなが仕事をしてるから、図書館の本を自分で借りることはあっても、休日に閲覧コーナーを使ったりはしないって、以前言ってたからね。 でも、俺としては何か意味深なモノを期待していたその質問の答えは、えらくあっさりしてた。 「昨日、お待ちしてますって言ってしまったので」 読んでた『トムは真夜中の庭で』にいつか見たレースの栞を挟んで、いつもの営業スマイル。 いちいち可愛いんだこれがまた。 それだけですか?って素で聞き返したら、それだけですって返事された。 プレゼントに舞い上がってしまい、翌日の休みをうっかり忘れてたって。 でも、言ってしまったからにはやっぱり待ってないとって思ったって。 いや、でも待ち合わせとかさ、時間とかちゃんと約束してた訳じゃない。 返却期限なんて一日遅れたら二日も三日も同じでしょ?その上寒いし、雪積もってて歩きづらいし、返しに来なかったらどうするんですか? あっさり返ってきた答えに納得できず、そう聞いた俺を彼女は笑った。 そういえば、そうですねってさ。 「でも、いつも期限はちゃんと守ってらっしゃる方ですし」 「今日は予定が無いので、一日ここで本読んでても、それはそれで」 その、恥ずかしいのをごまかす笑い方が新鮮で、思わず誘ってしまった。 「この後予定が無いなら、どこか行きませんか?お茶とか」 これ言うのに、初めて会話してからだいたい九ヶ月。 何度も言おうと思っては言えずにいたのに、その日はあっさり誘えた。 聞きたいことがたくさんあった。 話したいこともたくさんあった。 雪道歩いて靴は濡れてるし、その上転んだからコートのケツなんかも汚れててカッコ悪かったけど、そんなのは誘っちゃってから気づいた。 歩きながら足許危なくて、何度か手を引いて助けてもらったりして、その時初めて手を繋いだんだけど、そんなのも後になって気づいた。 初めて二人で外を歩いたのが嬉しくて、俺なんか一杯一杯だった。 相手が彼女じゃなければ、いつもはもう少し上手くやれたんだけどね。 さて、自分で誘ったくせにどこに行くかも考えてなかった俺を近所のコーヒー店まで連れていって、自分にも話があったと彼女は切り出した。 「誘っていただけて、ちょうど良かったです」 「昨日のあの本、たまたま見つけたっていうの、嘘ですよね?」 貰った時はただ嬉しくて喜んじゃったけど、冷静になったら解ったって。 八十年代に発行された洋書の初版が、探してもいないのにその辺の本屋で ”たまたま見つかる”事も、”つい買っちゃう”値段が付いてる筈もないって。 結局、俺の小細工も演出も最初から何の意味も無かった。 今考えればすごく恥ずかしい話だけど、そう言われるその瞬間まで、相手が本を扱う職業に就いてるってこと、すっかり忘れてたんだよね。 精一杯準備したけど、俺の嘘なんてそもそも通じる筈が無かったんだ。 だから俺は全部白状した。 あの本の話を聞いた日からずっと、いつかプレゼントしたいと思って探してたこと。 どう渡せば簡単に貰ってくれるか、一生懸命考えたこと。 そればかり考えてたせいで、借りた本の返却期日を忘れたこと。 と、ここまで喋ってしまえばもう隠す意味も無いし、次はどうせこれが聞かれるだろうと思って全部ぶちまけた。 プレゼントしたかった理由。 本に挟まってた栞の持ち主を探してもらったあの日から、会いたくて、仲良くなりたくて、話をしたくて図書館に通ってたこと。 一通り話し終わって、そこに至るまでだいたい九ヶ月というのが我ながらちょっと粘着質な感じがしたので、最後に、”ストーカーみたいで気持ち悪かったらごめんなさい”って謝ったら、彼女は笑った。 「じゃあ今度は私の話をします」 あの栞を作ったのは自分で、借りた本に挟んだまま返却してしまったもの。 専用の道具を使うレースの編み方を初めて試して、練習のつもりで作った。 だから、無くしてしまっても特に気にしてなかった。 まさか、そんなものをえらく深刻な顔して”すごくきれいで勿体無い”と、わざわざ律儀に届け出てくる人がいるとは思わなかった。 気になりはじめるきっかけは、それで充分だった。 栞が挟まってた本と同じ作者の作品を続けて借りている事に気づいたから、一大決心をして、返却のついでにその作者の話をしてみた。 貸出し期限の前日に返却される場合が多いことに気づいたから、同僚にお願いしてシフトを調整してもらった。 せっかく会えても、年下の、しかも大学生相手にどう接すれば引かれずに仲良くなれるか全然解らなくて、好きな本の話くらいしかできなかった。 探りを入れる為に、時々元ネタ当てゲームに意味深な言葉を混ぜてみた。 その前の日のコレットも、じつはそういう意味だった。 「なんか、一人でぐるぐるしてしまいまして」そんな素振りなんかちらっとも見せなかったのに、実は一杯一杯だったと恥ずかしそうに笑う彼女を顔を見たら、全身から力が抜けた。 一人でぐるぐるしてたのは俺だけじゃなかったんだって解ったら、なんか安心してちょっと涙出た。 それからずっと一日中好きな本の話をして、次の休日の約束をして、そのあたりからようやくまともに付き合える様になりましたとさ。 当時俺20歳で嫁さん24歳。 [体験告白][恋愛]
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