牝獣(ひんじゅう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜 ——日野草城
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17-04-15 03:05
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時計が9時半を指す頃、沙耶はリビングのテーブルに伏していた。俺は確認のため、髪に鼻を寄せる。匂いは妻と違う。沙耶の匂い。そうとしか呼べないものだ。
「バツグンだな、沙耶」
敢えて沙耶に尋ねる。 しかし彼女は夢の底。寝息を立てている。 俺は人殺しの気分で彼女を二階に運んだ。 睡眠剤の適量を入れた。 効果は約二時間。まだまだ時間はある。
「楽しもうか、沙耶。準備はバッチリさ」
俺はゆっくり沙耶の身体に手を伸ばす。 布団に寝転ぶ沙耶。足の先に二本の指を立て、まるで散歩でもするように、彼女の身体を指で歩いていく。 少々硬質で締まった太ももへ進み、陰部の土手で一休み。また歩き出して、へそを抜けて、乳房の先に指が降り立つ。最後は首を伝って彼女の唇に不時着だ。 指の旅。 心地よい旅だった。
乳房の先に指が降り立つ。最後は首を伝って彼女の唇に不時着だ。 指の旅。 心地よい旅だった。
さて、と俺は道具を持ってきた。 ビデオカメラ二台、小型を一台、そしてただのカメラも一台。 一台のビデオカメラは上の方から、小型カメラは横、そしてもう一台は手に持つ。
「ああ、そうだった」
俺は全裸になった。 イチモツはすでにへそにつきそうだ。先走り汁を指で掬い、そっと沙耶の唇につける。
「はじめようか、沙耶」
俺はゆっくりと沙耶の服を脱がしていく。 もちろん元の形で戻せるように丁寧に。高ぶりは止まらない。なんせ、あのレンズに守られていた秘部のすべてが感触としてあるのだから。恐ろしい高揚感。
やばいな。 これが口癖になる。 やばい犯罪者は自分のはずなのに、カメラにも残っているのに、言葉と震えは止まらない。心地よく止まらないのだ。 俺は立ち上がる。 沙耶の全裸が目に映る。 貝を開くように服を脱がされた沙耶。 キャミソールは丸まって、床に置いてある。 レンズ以上の感動……になるはずだった。
「違うな」
俺のイチモツ次第に活気を失っていく。 違うのだ。 沙耶の裸体ではあるが、違うのだ。 俺はそこで初めてレンズ越しの物に本当の愛を感じていることに気付いた。 そこから一時間、カメラは沙耶の身体を舐め尽くした。
そうだ。これなのだ。 またイチモツが起き上がる。 イチモツはアンテナ。俺の性欲のベクトルを正しく導いてくれる。快楽へのバイパスだ。 よだれや汁を垂らしながら、夢中になって沙耶をカメラに収める。 その時だった。
「ん……」
沙耶が寝返りを打った。 寒気がした。俺のわずかに残った普遍性に軋みが鳴る。 俺はすぐにカメラたちを部屋に戻して服を着た。 沙耶のところへ戻る。 彼女はまだ寝ていた。 俺は繊細なガラス細工に触れるように、あるいは、寝ている赤子を扱うように、沙耶に服を着せた。
その十五分後。 沙耶はリビングで目を覚ました。 キョロキョロして、寝ぼけた顔のまま、テーブルのコーヒーを口にしている。
「こーくん?」
俺は顔を上げた。 手には漫画。まるで今まで読んでいたような顔をしてみせる。
「沙耶ちゃん、寝ちゃってたね」 「そっか。こんなの初めてだよ、寝落ちなんて」
沙耶は太ももをポリポリ掻いている。 俺はちょっとの不信感も出せないようにまくし立てる。
「そうだ。この漫画もおもしろいよ。貸すから読めば?」 「えー、読み切れないよー」 沙耶はこちらを見ず、爪を見ながら答える。
「大丈夫、っていうか貸してもいいよ」 「でも、荷物になるからいいや」 「じゃあさ、短編集の方を貸すよ。この漫画家の短編集なら一冊で楽しめるし。二階から持って来るよ。ちょっと待っ……」
俺が立ち上がったその時、唐突に沙耶は手をつかんできた。 心臓が掴まれた気分。それが正しい比喩だと悟った。
「ど、どうしたの、沙耶ちゃん?」 「これ」 と、沙耶は爪を俺に向けた。 引っかかれると思った。
「な、なんだよ。爪がどうかしたの?」 「せいし」 「えっ?」
沙耶は爪の溝を指差した。 なにかカスのようなものが詰まっている。
「あ……あたしの太ももに……精子がついてる……」
俺はすぐに沙耶の手を振りほどいた。 震えがすぐに来たからだ。マズイ。太ももに俺の汁が落ちて固まっていたらしい。拭ったつもりだった。たぶん目に見えない形で付着していた。付いた本人は皮膚が引っ張られていたのだろう。
「……こーくん?」 「なんで精子ってわかんの?」
アホみたいな質問をしてしまった。 沙耶は猫のように俺を見上げたままだ。
「匂い。嗅いだことあるから」 「……そうか」 「ねえ、こーくん」
沙耶は立ち上がり、俺の前に立つ。 もう恐怖しかなかった。 次第に力が抜け、俺は尻もちをついた。 沙耶はコーヒーを口にする。 すっかり冷めた飲み物だ。
俺は正座をしている。 そんな俺を沙耶は仁王立ちで見下ろしていた。
「ねえ、こーくん」 「ごめん、としか言えない」 「一時の気の迷いだよね?」
言葉選びに悩む。 こんな劣勢、親からも受けたことはない。でもすべては俺のせい。重々承知している。
「黙ってたってわかんないんだけど……?」
強気な沙耶はあのレンズの向こうで無垢に動く少女とはちがう。恐怖でしかない存在だ。
「ケーサツ呼ぶ?」 「いや、ま、まま、待ってくれ! それは……」 「じゃあ話せるよね?」
沙耶は地べたにぺたりと腰を下ろす。 目線が重なった。笑顔はない。俺には恐怖がある。
「……ねえ、こーくん。あたしの裸見て、なにがうれしいの?」
すげえ質問。 だが答えない。答えられないが正しい。なんせ声が出ないんだから。
「それってさ、最低なことだよ。相手の同意なく裸にして、その、アソコいじってさ。精子つけてさ」 「……はい」 「気持ち悪いよね」
俺は吹っ飛びそうだった。 言葉で殴られた。ガツンと後頭部を。鼻血が出てもおかしくない。失禁しそうな気分になった。 するといきなり、沙耶は俺の胸ぐらをつかんだ。
「セックスしたいんだ?」 「……いや」 「ウソツキ」 そう言って、沙耶はテーブルの携帯をつかんだ。
マズイ。 警察か? もしくは妻かもしれない。 俺は走って、沙耶の手をつかんだ。
「なに?」 「や、やめてください」 「なにを? ケーサツ? お姉ちゃん? お母さん? なに?」
まくし立てるその声すべてが冷たい。 心がつららで刺されたようだ。ジワジワと痛みが押し寄せる。
「なんでもするからさ」 と、俺は膝をついて頭を下げた。 「頼むから許してくれ!」 額がフローリングに当たった。痛みはある。でもそれより沙耶の落ちてくる視線の方が何倍も痛かった。
何分の時間が流れたのだろうか? 長い沈黙を抜けて、沙耶はしゃがんだ。 そして俺の肩をつかむと、体をグイと自分の方に引っ張った。 俺は理解できないまま、ただ犯行はしなかった。
「……こーくん、なんでもするの?」 「うん」
沙耶はさらに俺を引き寄せた。 体はもう密着していた。 つまり抱きしめ合っていたのだ。
「さ、沙耶……ちゃん……?」 「あたしも子供がほしい」 「子供って?」 「今、一緒の人ね。結婚するの。誰にも言ってないけど」 「そうなんだ。で?」 「最近言われたよ。ぼくは子供ができにくい体質なんだ、って。精子ができづらいっていうのかな? 詳しくは知らないけど」 「それで精子の匂いがかったのか?」 「そういうこと。エッチの後に精子確認したり色々したからさ」 と、沙耶はゆっくり俺を引き剥がした。 顔はほのかに笑っているように見えた。 しかし安堵してはいけない。まだ完全に終わったわけじゃないんだから。
「でも無理だよ。バレるに決まっている」 「じゃあケーサツ行く?」
なんて女だ。 そう思った。
そもそも悪いのは俺なのに、まるで立場が逆にでもなったように、沙耶を軽蔑しそうになった。
「そもそも沙耶ちゃんは結婚してないだろ? そういうのは結婚してからでいいと思うんだけど」 「うん。結婚してからでいい」
……まだわからない。 これはそもそも脅迫なのか? 状況が読めない。沙耶がわからない。 それから俺は盗撮をしなくなった。 沙耶に怯えているからだ。それから沙耶はいつものように接してくれた。家族が家族に接するような、そんな当たり前の態度だ。
一年にも満たない月日が流れて、沙耶は籍を入れた。 純白のウェディングドレスを身にまとった彼女の裸を、俺はもう想像できなかった。 結婚式、二次会を終えて、俺は外にいた。 東京なんてなかなか来れない。 いまは一児のパパ。あの盗撮魔が、だ。未だに俺は怯えている。沙耶が暴露するんじゃないかって。
二次会のレストランのトイレへ向かい出るとき、沙耶とかち合った。 「おめでとう、沙耶ちゃん」 「ありがとう、こーくん」
沙耶はシンプルな白のワンピースに着替えていた。長く美しい体はやはり変わらず素敵だ。
「新婚旅行はどこに行くの?」 「ニューヨーク。明日には経つよ 「そっか」 と、沙耶は照れくさそうに頭を掻いた。
「楽しんで来てね。俺はもうホテルに戻るわ」 「あっ、待って」
沙耶はきょろきょろと周りをうかがい、そっと耳打ちした。
「今、空いてる?」 「空く、って?」 「えー!」 沙耶はびっくりして、俺の手をつかんだ。 その時、俺の中であの日が蘇った。
「……あのさ、沙耶」 察したのか、沙耶はうなずいた。
「ふふ。今日、チョー危険日だよ」 「マジでやるの?」 「うん。そいで旦那のせいにする。大丈夫だよ。あたしもこーくんもA型だし、旦那もこーくんも目も体も細いし」 「いや、本当にマズイって」 「でも、セックスしたいんでしょ?」
ちがう。 俺はセックスじゃなく、レンズ越しのお前を愛していたんだ。無垢に服を脱ぎ、何食わぬ顔で体を拭くお前を。
「すぐ終わればいいよ。中にちょいと出してくれればさ」 「勃つかなあ。緊張する」 「あたし、結構気持ち良くできると思うよ」
沙耶は満面の笑みで俺の手をつかむと、俺の部屋へ無理矢理入った。別に夢でもなかったセックスが始まる。最悪だ。
沙耶、お前の子供なんていらなかった。 まさか本当にできるなんて。
こうして俺は二人の子の親になった。 しかし一人の子は遠くにいる。 沙耶から送られる何気ないメールは、俺にとって恐怖でしかなかった。 もう盗撮なんてしない。 さや。 代償がいくらなんでも……大きすぎたよ……
<続く>
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